皆さんは、
高橋 景保
という人物を、ご存知でしょうか?
現代人でなく、以前、拙ブログでもチラッと登場した江戸時代後期の天文学者なのですが・・・。
その記事は、こちら。(↓)
景保は1785(天明5)年に天文学者・高橋至時(よしとき)の長男として大阪に生まれました。
19歳で父親の跡を継いで江戸幕府天文方となり、天体観測や測量、また天文関連書籍の翻訳に実績を残し、特に伊能忠敬の全国測量事業の監督・援助を行い、彼の没後その測量を基に 『大日本沿海輿地全図』 を完成させたことで知られています。
しかし優秀どはあったものの、ある意味学者バカでもあったようで・・・景保はシーボルトが所持していたロシアのクルーゼンシュテルノン提督が書いた 『世界周航記』 という本とオランダ領東インドの地図9枚と、彼が欲しがっていた 『大日本沿海輿地全図』 の縮図を交換してしまったのです。
おそらく彼自身はそま世界地図が手に入れば大いに役立つと思ったのでしょうが、当然日本の地図を外国人に渡すのはご法度。
彼は1828年10月10日に捕らえられ、伝馬町牢屋敷に投獄されてしまいます。
そして過酷な尋問が続いた末、約4ヶ月後の1829(文政13)年2月16日に45歳で獄死。
病死と伝えられていますが、果たして額面通りに受け取っていいかどうか・・・。
現代なら通常刑事被告人が死亡した場合、その公判は中止されます・・・が、彼の場合は違いました。
なんと遺体は埋葬されるどころか塩漬けにされ、そのまま事件の吟味が終了するまで亀の中で保管されたとか。
シーボルト事件の顛末やその様子を詳細に書き記した 『蛮蕪子』 という書物も現存しています。
そして今からちょうど190年前の今日・1829年3月26日に出された評決は
『存命ニ候ヘバ死罪』
ということで、保存されていた遺体は引き出され、罪状申し渡しの上斬首刑に処せられるという、非常に厳しいものでした。
「いくら何でも、そこまでやることは・・・」
と現代人の感覚では思えますが、逆に言えばそれだけ国防に関する機密漏洩に対して、江戸幕府は非常に神経を尖らせていた証左と言えましょう。
翻って、現在の日本はどうか?
前掲の 『シーボルト事件』 記事でも書いた通り、未だにスパイ防止法すらない脇がガラ空き状態であり、かつ支那の軍部要人に自衛隊の資料を平気で見せる元防衛相までいる始末。
景保は草葉の陰で、
「嗚呼、拙者も平成の世に生まれていれば・・・」
と臍を噛んでいることでしょう。
そんな国防意識の希薄な日本、この先も生き残れるのでしょうか?