先々月、拙ブログでは 『米騒動』 に関して、また先月には 『シベリア出兵』 の記事を掲載しました。(↓)
https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-12379011828.html
https://ameblo.jp/warmheart2003/entry-12294786828.html
そして、この2つの歴史的な出来事に関連した
はっこう
白虹事件
が起きたのが、ちょうど今から100年前の今日のことでした。
大正デモクラシーの風潮が強まっていた当時、先頭を切って言論活動を行い、前述の米騒動やシベリア出兵に関して寺内内閣を厳しく批判していたのが、大阪朝日新聞でした。
それに業を煮やした寺内首相は、1918(大正7)年8月14日に、米騒動に関する一切の新聞報道を禁止。
扇動報道によって全国に暴動が広がったのですから、当然の措置・・・だと私は思うのですが、新聞各社は猛反発。
8月25日に政府に対する禁止令の解除などを求める関西記者大会が開催されたのですが・・・その様子を書いたその日の夕刊(日付けは26日付け)の記事が事件の発端となりました。
問題となったのは、この記事。
「食卓に就いた来会者の人々は肉の味酒の香に落ち着くことができなかった。 金甌無欠(※きんおうむけつ=完全で欠点がないこと)の誇りを持った我大日本帝国は今や恐ろしい最後の裁判の日に近づいているのではなかろうか。
『白虹日を貫けり』 と昔の人が呟いた不吉な兆が黙々として肉叉を動かしている人々の頭に雷のように響く」
この文中にある 「白虹日を貫けり」 というのは、荊軻という刺客が秦王(後の始皇帝)暗殺を企てた時に起こった自然現象を記録したもの。
白虹は凶器を、そして日は秦王を表わしており、内乱が起きる兆候を指す故事成語。
政府は、この記事を 『朝憲紊乱罪』 (天皇制国家の基本法を乱す罪)という当時最大の罪にあたる革命を扇動したと断じ、新聞紙法第41条
「安寧秩序ヲ紊シ又ハ風俗ヲ害スル事項ヲ新聞紙ニ掲載シタルトキ」
に該当するとして、筆者・大西利夫と編集人兼発行人・山口信雄を大阪区裁判所に告発・起訴し、それぞれ禁固6ヶ月を求刑。
更に検察当局は大阪朝日新聞を同法第43条に基づき発行停止に持ち込もうとしました。
寺内首相は9月に入って体調を崩し、同月21日に退陣しましたが、それまでとは形勢が一転して関西地区では大阪朝日新聞の不買運動が起きたことで、当時の村山龍平社長が原・新首相に対して当局に監督不行き届きを陳謝し、社内の綱紀粛正を誓いました。
しかし9月28日、新聞社を出て人力車に乗って帰宅途中、右翼団体・黒龍会の所属メンバー7名に襲撃されたのです。
彼は丸裸にされて電柱に縛り付けられ、〝代天誅国賊〟と記された布切れを首にかけられる始末。
事態を重く見た同社は、10月15日に村山社長が退陣し、上野理一が新社長に。
その他編集幹部が次々と退社し、代わりにそれまで閑職に追いやられていた上野派の社員が要職に就きました。
一方、寺内首相の後釜となった日本憲政史上初の〝平民宰相〟原敬は、過去に新聞社勤務の経験があり、業界事情に精通していました。
※原敬に関する過去記事は、こちら。(↓)
その新首相が上野・新社長を呼び出して、起訴された社員には控訴しないよう説得する約束を取りつけ(12月4日に出された判決は禁固2ヶ月)、その代わりに大阪朝日新聞社は発禁処分を免れました。
12月1日付の同紙には、「本紙の違反事件を報じ、併せて本社の本領を宣明す」 という長文の宣言が掲載され、そこで同社は不偏不党の報道に徹する旨の決意を世に公表。(↓)
その後同紙の記事には、以前のような急進性が影を潜めました。
簡単に言えば、大阪朝日は原首相に手なづけられて宗旨替えをすることと引き換えに、新聞の発禁処分を免れた・・・ということ。
しかし、戦前・戦後を通じ朝日新聞が掲載した偏向・捏造記事の数々を見れば、この宣言が単に上辺を取り繕っただけで、本質は全く変わっていないことは明白。
この事件が政府による言論弾圧なのか、それとも朝日の自爆だったのかは皆さんの判断にお任せしますが、新聞の偏向・捏造報道を規制する法律がない今、
「嗚呼、この時に朝日新聞を潰しておけば・・・」
とため息をつくのは、私だけではないでしょうネ。