有言実行 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

世界に誇る日本人の発明品といえば、インスタントラーメン・青色LED・カラオケに温水便座など数多くありますが、養殖真珠も間違いなくそのひとつに挙げられるでしょう。

今日は、その真珠の養殖・量産化に世界で初めて成功した

 

 御木本 幸吉

の命日・没後65周年にあたります。

       

幸吉は江戸時代末期の1858(安政5)年に現在の三重県鳥羽市で代々うどんの製造販売を営む 『阿波幸』の 、八男三女の長男として生まれました。

祖父は商才に長け、また父親は便利な粉挽機の発明で県から賞金を受け取ったことがあったそうですが、幸吉はそのDNAを色濃く受け継いだようです。

正規の学校教育は受けられなかったものの、士族から寺子屋で読み書き・そろばんを習った彼は、幼少の頃から家業のうどん製造販売では利が薄く将来性がないことから、父親の言いつけで14歳から家業の手伝いをする傍ら青物の行商を始めました。

周囲には遠大なる目標を口にしたことから〝大法螺吹き〟と言われたそうですが、その業績を見れば分かる通り、彼はあらゆる手練手管を駆使して夢を実現していきます。

艦長や船員たちに手品を披露して可愛がられ、イギリス戦艦への青物や卵の売り込みに成功した幸吉は、1876年の地租改正で納税が米から金に変わったことから米が商売の種になると睨み、青物商から米穀商に転換。

20歳の時に家督を受け継き゜、22歳で最年少の町会議員に選ばれると、天然真珠など志摩の特産品が有力な貿易商品になることを知り、海産物商に再転換。

真珠やアワビ・伊勢海老などの販路を拡大して地元の産業振興に貢献し、
志摩国海産物改良組合長、三重県勧業諮問委員、三重県商法会議員などを歴任して地元の名士に。

 

そして1881年に鳥羽藩士族の娘だった17歳のうめと結婚した彼は、明治政府の殖産新興のうねりの中で、高値で取引される天然真珠に代わる養殖真珠の開発に着手。

真珠の養殖については、既に支那で12世紀に発刊された書物に方法が記載されており、1850年代にはイギリスの学会でも報告され、ヨーロッパでは研究が始まっていました。

(但しそれはあくまで真珠貝の内側を利用する貝付き真珠でしたが。)

 

1888年から天然真珠の乱獲で激減していたアコヤ貝の増殖を始めていた幸吉は、東京帝国大学の箕作佳吉らから学術的に養殖が可能なことを教えられると、1890年から養殖真珠の実験を開始。

 

資金難や赤潮被害の危機を乗り越えた彼は1893年7月、実験中のアコヤ貝の中に半円真珠が付着しているのを発見。

1896年1月に、半円真珠の特許(第2670号・真珠素質被着法)を取得すると、1907年には東京帝大で水産動物学を専攻後御木本研究所に入り、1903年に幸吉の次女と結婚した西川 籐吉(とうきち 1874-1909)が真円真珠養殖法の特許を請願。

残念ながらこの特許が認定されたのは西川の死後でしたが、彼の開発した(真珠貝の外套膜組織の一片を切り取って真珠貝の体組織の中に挿入する)〝ピース式〟が、現在の真珠養殖法として定着しています。

 

       

                      西川  籐吉

 

しかし一方で半円真珠の特許を取った3ヶ月後、物心両面で献身的に幸吉を支えた妻・うめが一男四女を残して病没。

周囲は苦労を察して幸吉に再婚を勧めましたが、頑として聞き入れず、亡き妻の位牌を撫でながら真珠の養殖に専心。

1905年に明治天皇に召されて真珠養殖事業について説明した際は、帰宅するなり仏壇の前で号泣しながら報告をしたそうな。

 

ただ幸吉が最初に取得した真珠養殖の特許は、1912年の大陪審の判決により、既に〝公知〟であったとされ、取り消されています。

しかしその間、幸吉は1899年に東京・銀座に御木本真珠店(現・ミキモト)を開店し、更に1913年にはロンドン、1927年にニューヨーク、1928年にはパリに出店して販路を拡大していますから、発明家というよりは実業家としての手腕が高かったと言えましょう。

1918年に養殖真珠の量産体制に入った幸吉は、イギリス・フランスから養殖真珠は偽物との訴訟を起こされましたが、裁判所から 「天然と変わらない」 というお墨付き判決を勝ち取り、逆にその価値を世界に認めさせることに成功。

生産拠点も全国に広がり、1950年代には日本の養殖真珠は世界シェア90%を握るまでに。


    

       1953年、地元に皇后陛下をお迎えした95歳の幸吉

 

1924年貴族院議員に勅選された幸吉は、養殖真珠が急成長の最中だった1954(昭和29)年9月21日・・・老衰により96歳で大往生を遂げました。

 

彼の偉業・生涯に関して詳しく知りたい方には、彼の長男でイギリス文学者だった御木本隆三(1893-1971)が記したこちらの古書のご一読をオススメします。

 『御木本幸吉 一業一人伝』 (時事通信社・刊)

 

        

 

半世紀以上前に出版された本ですが、非常に読みやすく身内ならではの様々なエピソードがちりばめられた、父・幸吉の生涯を生き生きと描いている良書・・・できれば再出版して欲しいもの。

 

さて、実は幸吉の養殖真珠量産で、産業構造が変わってしまった国があるんです。

それは、中東のクウェート。

同国はそれまで天然真珠の生産をほぼ独占していましたが、ミキモト・パールのおかげで真珠漁業は壊滅状態に。

そこで新たな産業として石油採掘の許可を出し、それが石油大国への足掛かりとなったのです。

当初はミキモトパールを恨んだでしょうけど、今は幸吉に感謝しているでしょうネ。

明治天皇に拝謁した際、

 

「世界中の女性の首を真珠でしめて御覧に入れます」

 

と大見得を切って周囲を慌てさせたそうですが、見事その言葉を実現された大法螺吹き・・・じゃなくて有言実行の人であり、エジソンやマッカーサー夫人をはじめ多くの政・財・官界の著名人とも交流があった真珠王の冥福を、改めて祈りたいと存じます。

 

 

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