今まで長い歴史を誇る日本プロ野球には、過去千人以上の外国人選手が〝助っ人〟としてブレーしましたが・・・ここでクイズです。
戦後初めてその助っ人として日本にやってきた選手は、誰?
中高年の野球ファンでないと分からないかもしれませんが・・・正解は、
与那嶺 要 選手
〝ウォーリー与那嶺〟という愛称で呼ばれた彼が読売巨人軍の選手としてシーズン途中にハワイから来日し、初めて日本のグラウンドでプレーしたのが、今から68年前の今日・1951(昭和26)年6月19日のことでした。
与那嶺選手はその名前からお察しの通り、外国人と言っても父が沖縄、母が広島県出身の日本人という、ハワイ移民2世。
子供の頃から家業のサトウキビ畑で働いていた彼は、その俊足を買われて1947年にアメラグのプロチームに入団したものの、度重なるケガのためブレー続行を断念。
1950年、野球に転向してマイナー・リーグのソルトレイクシティ・ビーズに入団しました。
その俊足に目を付けた巨人のスカウトに勧誘された彼は、1951年シーズン途中に入団すると、初打席でいきなり中日。・杉下茂投手からセーフティーバントを決め、早くも本領を発揮。
本場仕込みの走塁技術を披露すると共に、規定打席に達しなかったものの打率.354をマーク。
翌年にはリーグ2位の打率.344と38盗塁をいう成績を残し、オールスターにも選出されると、1954年には打率.361で首位打者を獲得。
1961年に中日に移籍しましたが、1962年に引退するまで実働12年間でオールスター出場8回、ベストナイン7回、首位打者3回、MVP1回。
1,337安打、打率.311、163盗塁をマークして巨人の第2期黄金時代を支え、〝助っ人〟と言われるに相応しい成績を残しました。
そして現役引退後は、中日で打撃やヘッドコーチを務めた後、1972年から5年間監督を務め、1974年には巨人の10連覇を阻んで中日20年ぶりの優勝を果たし、地元ファンを狂喜させました。
その後は1988年まで古巣の巨人など複数の球団でコーチや監督を歴任。
日本語での日常会話は出来たものの読み書きがほとんどできなかったこともあり解説者にはならず、38年間ユニホームを着続けるという異例の野球人生を送りました。
1994年に外国人選手としてはスタルヒンに続き2人目の野球殿堂入りを果たした与那嶺氏は、85歳だった2011年にハワイで亡くなられました。
この与那嶺氏には、こういった数字に残る功績の他に、実は間接的に野球界に多大な貢献をされているのです。
あの〝世界の王〟こと王貞治氏が少年時代に後楽園球場で巨人戦を観戦した際、選手にサインをせがんだのですが、差し出したのが玩具のゴムボールだったために、誰もサインしてくれなかったのだとか。
しかし与那嶺選手だけが立ち止まって粗末なゴムボールにサインしてくれたことに王少年は大感激。
それを忘れられなかった王氏は、現役時代から現在までファンからの要望があればできる限りサインに応じてきたのだそうな。
与那嶺氏は、巨人・中日だけでなく日本プロ球界の助っ人だったと言ってよいでしょう。
ハワイで余生を送った晩年の与那嶺氏
過去には、クロマティやバースなど記憶・記録に残る活躍をした選手もいた半面、鳴り物入りで来日しながらシーズン途中、酷い場合はキャンプ中に帰国してしまった選手も少なくありませんでした。
願わくば、成績だけでなく与那嶺氏のような少年ファンに夢と希望を与える選手に来日してもらいたいものですネ。