証 明 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

皆さんは、20世紀最高の物理学者アルベルト・アインシュタインの名をご存知だと思います。

そして彼が唱えた最も有名な学説が〝相対性理論〟であることも。

 

        


これには彼が1905年に発表した特殊相対性理論と1915~16年にかけて複数の論文で発表した一般相対性理論の2つがあります。

※アインシュタイン及び相対性理論に関する過去記事は、こちら。(↓)

 

ところが、この一般相対性理論を彼が発表した時はちょうど第一次世界大戦の真っ最中だったため、ドイツで発表されたこの画期的な理論は世界的に知られることはありませんでした。

しかし今からちょうど100年前の今日、その一般相対性理論が正しかったことが証明され、世界中がこの話題で持ち切りに。

その証明を行ったのは、前述の過去記事にも書いた通りアインシュタインではなく、別人。 

それはイギリスが生んだ天体物理学者、


 サー・アーサー・スタンレー・エディントン (1882-1944)

Sir Arthur Stanley Eddington

 

        

 

2歳の時に学校の校長をしていた父親を亡くしたエディントンは、姉2人と貧しい母子家庭で育ちましたが、非常に聡明な子供でした。

1898年に奨学金を得て16歳の時にマンチェスター大学オーウェンズ・カレッジに入学し物理学を専攻した彼は、1902年に特優の成績で理学士の学位を得て卒業。

更に奨学金を得てケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに進学し1905年に卒業したものの、その後は熱電子放流や数学の分野に進んだものの、芳しい成果は出せませんでした。

しかし大学を離れ王立グリニッジ天文台々長の助手長の職を得たことが、彼の運命を大きく変えることに。

 

1907年に2つの星の見かけの移動量に基づいた新しい統計的手法を編み出して 『スミス賞』 を獲得した彼は、その功績によってトリニティ・カレッジの特別研究員に。

更に1904年にはケンブリッジ天文台々長に指名され、王立協会会員にも推挙されるなど、トントン拍子に出世。

第一次世界大戦中は、彼が科学分野における重要な科学者であると仲間が軍にかけあったため、兵役を免除されてもいます。

まさに芸は身を助けた形ですが、その彼が大戦終了後の1919年5月29日・・・アフリカ・プリンシペ島で日食を観測。


       

 

太陽付近に見える恒星の写真を撮影し、本来の位置から僅かにズレがあることを突き止めたのです。

 

これによって一般相対性理論で唱えられた〝重力レンズ効果〟即ち太陽の重力場で光線が曲げられることが証明されたのです。

    

この結果が新聞によって報道されたことで、一般性理論はアインシュタインの母国ドイツだけでなく英語圏でも紹介され広く知られるように。

その時の報道で、〝相対性理論を理解してるのは世界で3人だけ〟などと報じられ、それを聞いたエディントンが

「はて、(アインシュタインと自分以外の)3人目は誰なんだろう?」

と冗談交じりに答えたとか。

そんな彼はその後相対論の講義を平易な言葉で行うと同時に、講義の内容を 『相対論の数学的理論』 という著書にまとめ、アインシュタインから

「このテーマについてあらゆる言語で書かれた本の中で最も素晴らしい解説書」

というお墨付きをもらっています。

    

            アインシュタイン(左)とエディントン

しかし一方で、やはりアインシュタインが一般相対性理論の中で唱えた〝ブラックホールの存在〟に関し、1930年にインドから来た留学生がその存在を理論的に指摘した際、彼はそれをロクに検討せず頭ごなしに否定。

そのためその留学生の指摘は日の目を見ることなく、ブラックホールの研究が1960年代に入るまで行われなかった、という負の遺産も残してしまいましたが。

こういう話を聞くと、いかに優秀な科学者も神様ではないし、下手な権威付けは時として文明や化学の進化にとって足かせになることが分かりますネ。
うー

 

 

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