戦後、国鉄は 『洞爺丸事故』、『鶴見事故』 など多くの犠牲者を出す大事故をたびたび起こしました。
※洞爺丸事故に関する過去記事は、こちら。(↓)
そして、その〝戦後国鉄5大事故〟のひとつに数えられる
三河島事故
が起きたのが、今から56年前の今日のことでした。
事故現場は、国鉄(現・JR東日本)常磐線の三河島駅構内。
1962(昭和37)年5月3日午後9時30分過ぎ、貨物線から進行方向右側の下り本線に進入しようとした田端操車場発水戸行きの下り第287貨物列車(蒸気機関車D51牽引の45両編成)が、出発信号機の停止信号を通過して安全側線に進入し、脱線。
先頭の機関車とすぐ後ろに連結されていたタンク車が下り本線上に飛び出してしまいました。
そこに下り本線を走行していた6両編成の取手行き第2117H電車が突っ込み、先頭と2両目の車両が脱線し上り本線上に飛び出してしまいます。(下図・上)
更にその7分後、その現場に今度は9両編成の上野行き上り第2000H電車が進入。
先に脱線した下り電車から降りていた多数の乗客を刎ねた上、2117Hの先頭車両と衝突し、1両目全部と2両の前部は粉砕・破壊され線路わきの倉庫に突っ込み、3両目も転落、4両目も脱線したのです。(下図・下)
事故当日は東北地方で発生した地震と、東北本線・古河駅で起きた脱線事故の影響でダイヤが乱れており、最初に脱線した貨物列車も遅れていたため、通常通り過ぎる三河島駅で停車し2117H電車に追い越しさせる予定でした。
しかし機関車の運転士が黄色信号を見落として駅構内に減速せぬまま進入してしまい、赤信号を見て慌ててブレーキをかけたものの停車できず駅を通過してしまったのが、最初のミス。
そこに2117H電車が進入し衝突したのですが、この時点では死者も重傷者もいませんでした。
しかし先頭車両が停電して暗くなったため、9年前の1951年4月に起きた炎上した車輛に閉じ込められた乗客が106名も亡くなった 『桜木町事故』 を憶えていた乗客が、非常用コックでドアを開けて外に避難。
そこに事故発生を知らなかった2000H電車が・・・運転士が線路上を南千住方向に歩く乗客を確認して非常ブレーキを掛けましたが間に合わず、乗客をはねながら、2117Hの1両目に激突したのです。
その結果、最初の信号見落としから悪いタイミングが重なったこの3重衝突・脱線事故は、死者160名・負傷者296名を出すという大惨事となりました。
その中には、脱線した電車から外に出ようとして、誤って高架下に転落した方もいらっしゃったとか。
この事故に関しては、最初の衝突から上り2000H電車の進入までの約6分間、列車防護の措置を怠ったとして貨物列車の機関士と機関助士、2117H電車の乗務員、三河島駅助役・信号掛に禁固3~8ヶ月の有罪判決が出されました。
ひとつの救いは、この重大事故を契機として自動列車停止装置(ATS)の設置が急ピッチで行われ、1966年までに一応の整備が完了した事。
とは言え、その後も列車の暴走・衝突事故が根絶されたわけではありませんが・・・。
ATS設置例
余談ですが、この事故に巻き込まれ犠牲になった芸能人がいました。
それは当時人気漫才コンビであった栗友一休・三休の、一休さん。
相方の三休さんのショックはさぞ大きかったと思いますが・・・彼こそは、後に照代さんとコンビを組んで夫婦漫才師として復活した春日三球さんでした。
列車事故で相方を亡くしながらも、地下鉄ネタで人気を博すとは・・・まさに見上げた芸人根性と言えましょうか。
しかし珠代さんは、1987年に番組収録中クモ膜下出血で倒れ、そのまま帰らぬ人に。
再び一人取り残されピン芸人として頑張っていた三球さんは、今もご存命とのこと。
あらためて84歳になられた三球さんのご長寿と、犠牲者の方々のご冥福をお祈りしたいと存じます。