今月10日に、拙ブログでは東京大空襲について取り上げました。
しかしご存じの通り、米軍による空襲はそれだけに留まらず、その9日後の1945(昭和20)年3月19日・・・航空機製造工場など軍需工場が集中する名古屋にも大規模な空襲が行われ、死者1,037名、負傷者2,813名、焼失家屋約3万6千戸を数えるに及びました。
この米軍による本土空襲(ドゥーリットル空襲)が初めて行われたのは、1942年4月18日のこと。
この時は航空母艦ホーネットから飛び立った中型爆撃機B25が東京・名古屋・川崎・四日市・神戸などを単発的に襲撃したもの。
更に1944年6月に中国大陸の成都から飛び立った新開発のB29により九州の八幡製鉄所が被害に。
しかし本格的な空爆が始まったのは、1944年夏にグアム・サイパンが陥落したことによりB29の航続距離で日本本土往復が可能になってから。
サイパン島で焼夷弾を積み込む前のB29
名古屋は前述の3月19日の他に、それに先立つ前年12月13日から延べ63回の空爆が行われ、死者約1万人。
また大阪では3月13日から8月14日まで合計33回行われ、死者は約15,000人。
東京は前述のドゥーリットル爆撃以降、3月10日の大空襲を含め延べ130回、死者は約12万人以上に上りました。
既に戦闘機など航空機の殆どを失った日本はほぼ完全に制空権を失っており、まさにやられ放題。
玉音放送が流された8月15日まで続けられた空爆被害は、全国200ヶ所以上の都市に及び、死者は50万人前後、被災人口は970万人、全国の20%にあたる約223万戸が焼失。
(※広島・長崎への原爆投下を含む。)
更には多くの国宝や重要文化財も失われました。
当初は軍需工場を狙っていた・・・と米軍は主張しますが、東京大空襲以降は殆ど無差別爆撃。
そもそも木造の日本家屋を考慮した焼夷弾を開発・投下しているのですから、最初から一般市民も標的にしていたのは明白。
『日本空襲の全貌』 (平塚柾緒・編著 洋泉社・刊)
この書籍を読むと、米軍の無差別爆撃を周到に準備していたことが分かり、怒りを禁じ得ません。
無差別爆撃は非戦闘員への攻撃を禁止したハーグ陸戦条約に違反した残虐行為。
アメリカは事後法で日本軍人を極東軍事裁判で裁きましたが、本来その米軍こそ国際裁判で裁かれるべきなのです。
勝てば官軍、負ければ賊軍。
敗戦後の日本の歴史を見るにつけ、私はこの言葉を苦々しく噛み締めるのです。