欧 化 | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

明治政府を支えた政治家・要人には学校の教科書に登場する人物は何人もいますが、その学校教育の基礎を築きながら何故かあまり名を知られていない政治家がいます。

今日は、現・一橋大学の創立者にして我が国の初代文部大臣を務めた


 
もり    ありのり
 森 有礼

の命日・没後130周年にあたります。

 

有礼(正字体では有禮)は1847(弘化4)年、薩摩藩士・森喜左衛門有恕の五男として現在の鹿児島市春日町で生まれました。

17歳頃から薩摩藩の洋学校である開成所で英学講義を受けた彼は、1865年に五代友厚らと共にイギリスに密航で留学。

その後ロシアやアメリカを旅行し、キリスト教に深い関心を持った彼はアメリカで教科書を集め、明治維新後に帰国すると福沢諭吉らと共に
日本最初の近代的啓蒙学術団体である 『明六社』 を結成。

1875年には、東京・銀座に一橋大学の前身となる私塾・商法講習所を開設し、
同年には広瀬常と結婚。

 

この結婚に際しては双方が婚姻契約書に署名した、日本初の契約結婚と言われているそうな。
(しかし、後に2人は離婚していますが・・・。)

 

そして1885年、第一次伊藤博文内閣において初代文部大臣に就任すると、東京高等師範学校(後の東京教育大学、元・筑波大学)を教師区の総本山と称して教育改革を実施。

翌年には学位令を発布し学位として大博士と博士の二等を定めると、同年3~4月にかけて順次学校令を発令し、初等・中等・高等の学校種別を制定しました。

1888年に成立した黒田清隆内閣でも引き続き文部大臣を務め、ますます日本の教育に力を入れようとしていた彼を、悲劇が襲います。

       

実はその前年に、ある新聞が、
「ある大臣が伊勢神宮・内宮を訪れた際、社殿にあった御簾をステッキでどけて中を覗き、土足厳禁の拝殿を靴を履いたまま上がった」と報じたのです。

これが俗に 『伊勢神宮不敬事件』 と言われるものですが、この大臣が
誰なのかが問題となり、英語を国語化しようと考える程の急進的な欧化主義者として知られていた彼が疑われることに。

そして1889(明治22)年2月11日に行われた大日本帝国憲法発布式典当日、出席のため礼装で官邸を
出たところで当時伊勢神宮造営掛だった国粋主義者・西野文太郎(当時24歳)に短刀で斬りつけられてしまいます。

医師に応急処置を施され病院に担ぎ込まれたものの、翌12日・・・出血多量により、43歳で帰らぬ人となりました。

(犯人・西野も凶行現場で斬殺されています。)

日本の教育近代化については、誠に惜しい人材を亡くしてしまいましたが、襲撃の端緒となった不敬事件については、結局真偽はうやむやのまま。

もしその記事が誤報であったのなら、彼は新聞に殺されたようなもの。

その新聞って、もしかしてあの捏造が得意な・・・。
うー

 

 

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