出世欲 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

日本史の授業で 『天保の改革』 を主導したとして、皆さんもこの人物の名前には聞き覚えがあることでしょう。 

 水野 忠邦

今日は、江戸時代後期に権力をふるったこの老中の命日にあたります。

 

     

 

忠邦は1794(寛政6)年に唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として生まれました。

長男の芳丸が夭折したため、11歳の時に唐津藩の世子となり、その2年後には後に自らを引き立ててくれた徳川家慶(当時は第11代将軍・家斉の世子)に謁見しています。

1812年に父・忠光が隠居したことで弱冠18歳で家督を相続した忠邦・・・実は強烈な出世欲の持ち主でした。

 

一藩主では物足りず、幕閣への昇進を強く望んだ彼は、多額の賄賂をばら撒いて、22歳で奏者番(※江戸城内における礼式の管理役に。

しかしそれに飽き足りなかった彼は、唐津藩が長崎警護の任にあり昇格に支障があると知るや、1817年に25万3千石の唐津藩から15万3千石の浜松藩への転封を自ら申し出ます。

家臣からすれば寝耳に水 & 大迷惑・・・家老の二本松義廉が諫死して果てましたが、それでも忠邦は国替えを強行。

転封で彼の名は幕閣に知れ渡り、同年には早くも寺社奉行兼任に。

この出世により、今まで賄賂をばら撒いていた彼の手元には逆に賄賂が集まるようになり、家臣の不満も沈静化・・・って、実に分かりやすいというか、〝現金〟なものですネ。

 

その後も1825年に大阪城代、翌年に京都所司代、1828年には西の丸老中となって世継ぎ・家慶の補佐役を務めた忠邦は、1834年に本丸老中と順調に出世を重ねます。

 

家斉在任中は〝天保の三侫人〟と呼ばれた水野忠篤・林忠英・美濃部茂育らが権力を握っていたものの、1837年に家慶が第12代将軍となると、忠邦はその2年後に老中首座に。

 

       

               第12代将軍・徳川家慶

 

 そして1841年に家斉が亡くなると同時に旧勢力を一掃し、冒頭の『天保の改革』に着手。(※陣頭指揮を執ったのは、目付・鳥居耀蔵。)

 

同改革では 「享保・寛政の政治に復帰するように努力せよ」 と覚書を申し渡し〝法令雨下〟と呼ばれるほど多くの法令を定めました。

その代表的なものとしては、激減していた年貢米を復活させるため江戸に流入していた農民を地元に強制的に戻す『人返し令』。

物価高騰の元凶といわれた株仲間の解散や、奢侈(しゃし=過度な贅沢)禁止・風俗粛正などでしたが、いずれも空振り。

むしろ貨幣の質を落としたことで物価は急騰。

彼の腹心だった遠山景元は逆にこれらの政策を緩和したことで庶民の人気を高め、後に〝遠山の金さん〟として名を残しました・・・。

結局成果を挙げられなかった忠邦は、1843年9月に老中を罷免されることに。


しかし後任の老中首座・土井利位が家慶の不興を買い、忠邦が首座に返り咲きましたが・・・既に往時の面影・権力はなく、御用部屋でボンヤリしている日々が多かったとか。

結果、家督は長男・忠精に次ぐことを許されたものの、強制隠居・謹慎を命じられ、1851(嘉永4)年2月10日、56歳で病没しました。

謹慎が解かれたのは、死後5日経ってからだったとか。

強烈な出世欲を持ち、その夢を叶えたところは凡人の成し得ぬところですが、地位に相応しい能力のない者に権力を与えるとロクなことにならない・・・という格好の事例だったとも言えましょう。

組織のトップには、なりたい者ではなく周囲が推す人物を就けるべきですネ。
うー

 

 

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