恩 人 | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

日本を代表するベースボールプレーヤーである、イチロー選手。

彼が愛工大名電高からプロ野球入りした時は、1991年に行われた日本プロ野球ドラフト会議で指名されてのことでしたが・・・皆さんは何位指名だったかご存知でしょうか?


なんと、4位だったんです。驚き顔


今では信じられないことですが、当時の彼は身体の線が細く、地元中日ドラゴンズでさえ注目していませんでした。


そんな彼の打撃センスと強肩・俊足に目をつけて球団に再三指名を進言し、結局は現在のイチローの活躍を引き出した名スカウトがいました。 その方の名は


 三輪田 勝利 さん

 

今日は、このイチロー選手の恩人の命日・没後20周年にあたります。

 

       

 

 三輪田さんは1945(昭和20)年に愛知県で生まれ、名門・中京商に入学して甲子園に出場。

 

早稲田大学に進学すると東京六大学リーグで23勝を挙げ、エースとして活躍。

 

卒業後は近鉄からのドラフト指名を蹴ってノンプロ大昭和製紙へ。

その後1969年にドラフト1位指名を受けて阪急ブレーブス入り。

 

しかし当時の阪急は選手層が厚く、1971年にウェスタン・リーグで最多勝を挙げたものの1軍での登板機会は少なく、結局1970~72年の3シーズンで4勝0敗の戦績にとどまり、現役を引退。

 

他チーム関係者も認める人柄の良さは、上田監督からも〝誠意のかたまり〟と高く評価され、球団スカウトに転身。

 

しかし結果的に、その人の良さが彼を苦しめる事になろうとは・・・。


快速球投手・山口和夫選手も発掘(1999年ドラフト1位指名)したことでも知られていますが、何といっても有名なのが冒頭のイチロー選手。

 

愛工大名電で当時トピッチャーをやっていた鈴木一朗選手を見た三輪田スカウトはその素質に惚れ込み、何度も球団の上司を球場に呼び出し視察させたそうな。

 

「体が細くてプロでは無理」 と断られても食い下がり、その熱意に負けた球団は殆どの他球団がノーマークだった彼を、前述の通り4位で指名。

 

その後の大活躍は、あらためて書く必要はないでしょう。

 

もし三輪田さんのスカウト眼がなかったら、イチローという逸材はプロ球界に存在しなかったかもしれないのです。

 

その後球団のスカウト兼編成部長となった彼を悲劇が襲ったのは、1998(平成10)年のことでした。

 

オリックス球団は当時沖縄水産高に在籍した新垣投手の指名権を獲得したものの、「ダイエー以外には行かない」 と明言していた彼は三輪田さんとの面会を拒否。

 

球団側から厳しく叱責された彼は、11月27日・・・まだ53歳の若さで沖縄のマンションから飛び降り自殺して果てたのです。 

 

    

 

 誠実な性格ゆえに、球団と選手側の板挟みになって交渉難航に悩んだ末の悲劇と伝えられました。

 

しかし事はそんな単純なものではなかったようです。

 

アマ球界にはスカウトに絡む裏金のやり取りが囁かれており、三輪田さんはその渦に巻き込まれ騙された・・・という話が一部マスコミで報じられたことも。

 

この辺のウラ事情について、三輪田氏と早大時代のチームメイトだった毎日新聞社の六車護さんが

 

『名スカウトはなぜ死んだか』 (講談社・刊)


              

 

という著書で言及しています。

 

コアな野球ファンには、お勧めの一冊。

中古書籍市場で手に入ります。

イチロー選手は三輪田さんの死に大きなショックを受け、告別式に参列して棺に自らのバットを入れ、メジャー入りした後も帰国のたびに墓参を欠かさないとか。

 

球界を影で支えた名スカウトの無念に思いを馳せつつ、あらためてご冥福をお祈り致します。笑3

 

 

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