プロ野球のドラフト会議・・・半ばくじ引きで選手の人生・進路が決まるだけに、毎年悲喜劇が繰り返されています。
その中でも、個人的に・・・というか、多くの中高年野球ファンが忘れられないであろうあの大騒動が起きたのは、今からちょうど40年前のことでした。 それは、
江川事件
作新学院の怪物として全国に名を馳せた江川卓投手は、高校卒業時の1973年ドラフトで阪急ブレーブスから指名を受けるも、大学進学を理由に拒否。
そして法政大学卒業時の1977年ドラフトではクラウンライターライオンズが指名権を獲得したものの、巨人入りを熱望する同投手は 「(ライオンジの本拠地)九州は遠過ぎる」 という理由で入団を断り、次の年のドラフトに備えて南カリフォルニア大学へ野球留学。
そしてその1978年のドラフト会議開催日の前日、突然読売巨人軍が江川投手との契約を発表し、世間を驚かせたのです。
当時の野球協約では、
◆交渉権を持つ球団が当該選手と交渉できるのは、翌年のドラフト会議の前々日まで。
◆ドラフト対象に該当する学生は『日本の中学・高校・大学に在学している者』。
と規定されていました。
江川投手はその時点でアメリカに留学していて日本の大学には在籍しておらず、また社会人野球にも属していなかったため、野球協約の規定上ではドラフト対象外だったのです。
その盲点を見つけた巨人が〝空白の一日〟に電撃契約をした・・・というわけ。
個人的には、もしアメリカで同様のトラブルが持ち上がって法廷闘争に持ち込まれたら、巨人側が勝訴すると思います。
しかし情実を重んじる日本では、そうはいきませんでした。
プロ野球機構やマスメディアは 「協約破りだ」 と激怒し、契約の無効を主張。
それに対し巨人側は反発し、1977(昭和52)年11月21日に開催されたドラフト会議をボイコット。
更にはプロ野球機構を脱退・新リーグ立ち上げをぶち上げ、球界は分裂の危機に。
そして翌年1月末のキャンプイン直前、金子コミッショナーの〝強い要望〟により江川投手はいったんドラフトで指名権を得た阪神に入団し、その直後当時巨人のエースだった小林投手とのトレードによって巨人に入団することが決定。
その時の記者会見で男らしく阪神に移籍した小林投手は悲劇のヒーローとなり、逆に江川投手はメディアによってすっかりヒール(悪役)のイメージを作り上げられました。
これでとりあえず騒動は一件落着となりましたが、その後もしばらく尾を引いたことは、皆さんもご存知の通り。
しかしこの事件が起きたことにより、後年選手による逆指名制度やFA制度導入の端緒になりましたから、決して悪影響を残しただけでなかったのが救い。
ただ巨人がドラフト会議をボイコットしたおかげで、その年巨人に指名されるはずだった落合博満選手がロッテに行くなど、他の選手の運命を変えたことも事実ですが・・・。
さて、この事件は私にとっても大きな意識変革をもたらしました。
それは、この事件以降マスメディアを信用しなくなったこと。
多くの方は、江川投手が記者会見の席上で 「冷静にやりましょう」 と発言したシーンをニュースで見た記憶があると思います。
メディアはこれを江川投手の傲岸不遜ぶりを印象付けるために、繰り返し報じました。
しかし、これはその直前ある記者がヤクザ紛いの暴言を彼に投げつけた直後に彼が返した言葉だったのです。
メディアはその記者の恫喝部分をカットし、江川投手の発言だけを執拗に垂れ流し。
私はそのノーカット版を見た時から、マスメディアが真実を伝えず都合よく情報の切り張りをすることを知ったのです。
朝日新聞を始めこれ以降様々な捏造・偏向報道が指摘されていますが、売り上げや視聴率を伸ばすためなら、そんなことは朝飯前・・・残念ながら、その体質は今も変わっていません。
ある意味、江川投手は偏向捏造メディアの犠牲者だった・・・と、今でも思っています。