長 身 | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

今では〝くまもん〟が知名度No.1でしょうが、彼が登場する前に熊本県の有名人といえば、川上哲治さんとこの方だったのではないでしょうか?

 加藤 清正 

今日は、戦国時代に活躍したこの武将の命日・没後410周年にあたります。

       

 

清正公は1562(永禄5)年に刀鍛冶・加藤清忠の子として、熊本ではなく現在の名古屋市に生まれました。

父親は早くに亡くなったものの、母親が豊臣秀吉と遠戚だったことから可愛がられ、早くも9歳で仕官し14歳の時に170石を与えられた清正公は、生涯秀吉に忠義を尽くすことになります。     

       

そして20歳の時に本能寺の変が勃発すると、光秀との 『山崎の戦い』 に参戦。 

更に翌年、柴田勝家との 『賤ヶ岳の戦い』 では敵将・山路正国を討ち取る武勲を挙げ、〝賤ヶ岳の七本槍〟として秀吉から3,000石の所領を与えられる大出世。

更に1586(天正14)年からの九州平定に従軍すると、肥後国領主・佐々成政が失政により改易されたことで19万5千石を与えられ、27歳で肥後北半国を任されました。

 

そして1592(文禄元)年から始まった朝鮮出兵(文禄・長安の役)では隣領の小西行長と先陣を争って7年間に渡って活躍。

現在で言えば韓国・北朝鮮はもとよりロシア領あたりまで進軍したといいます。


そして秀吉が亡くなると、石田光成や小西行長との確執から東軍に加わった清正公は関ヶ原の戦い(↓)に勝利。


小西家滅亡後は彼の所領していた肥後南半国を与えられ、54万国の大大名に。

    
            
熊本城 (地震による石垣崩壊前)

しかし秀吉の遺児・秀頼と徳川家康を京都・二条城で引き合わせた後の肥後に戻る船の中で発病した清正公は、そのまま体調が回復することなく、1611(慶長16)年6月24日・・・奇しくも誕生日と同じ日に、50歳でこの世を去ってしまいました。

 

彼は身長約190cmもあったと伝えられ、更に〝長烏帽子形兜(ながえぼしなりかぶと)〟という細長い兜を愛用していたそうですから、かなりの長身・大男に見えたはず。

有名な虎退治の逸話は、実際には黒田長政とその家臣によるものだそうですが、それが清正公の逸話にすり替えられたのも、その強さや威圧感に起因したのかも。

 

 更に石田三成と対立したことで秀吉から伏見に蟄居を命じられていた1596(慶長元)年に大地震が起きた際、いち早く300人の手勢を引き連れて秀吉の許に駆け付けて警護した程、豊臣家に対する忠誠心が強かったことは周知の事実。

彼の死因については、梅毒やハンセン病による病死説もありますが、私は天下統一を図る家康が彼の力を怖れて毒殺したのではないか・・・と思っています。

現実に彼の死後わずか4年で、豊臣家は大阪・夏の陣によって滅亡しましたし。

清正公の善政については現在でも地元・熊本に鳴り響いているそうですから、その政治手腕に関しては同じ熊本出身の細川某・元総理とは比較になりますまい。

また朝鮮出兵時に清正公が持ち帰ったものに、セロリがあるとか。

残念ながらその独特の臭みからあまり流行らなかったそうですが、未だに熊本ではセロリのことを朝鮮ニンジンならぬ〝清正人参〟と言うのだそうな。

もし清正公がもっと生きていたら歴史は変わり、同じく190cm以上あったと言われる秀頼との〝両巨人〟が日本を支配していたかもしれません。

今宵は〝清正人参〟をかじりつつ、そんな歴史のイフを想像したいと思います。笑3

 

 

              人気ブログランキング