古今東西の歴史を顧みると、国家間の戦争は些細な出来事から始まることが少なくありません。
皇太子が暗殺されたサラエボ事件をキッカケにヨーロッバ全土はおろかアメリカや日本まで巻き込む第一次世界大戦になったことは、その典型。
そこまで大事にはならずとも、今からちょうど400年前の今日、国家間戦争の火種となる出来事が起きました。 それは
そうがいとうてき
プラハ窓外投擲事件
その前年・1617年にカトリック教徒で対プロスタント強硬派だったハプスブルグ家のフェルディナンド(後の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世)がボヘミア王に即位。
すぐにプロテスタントを迫害しようとしたことにボヘミア貴族は反発。
フェルディナントの即位を認めず、対立が深まっていきました。
そして1618年5月23日、ボヘミアの民衆がプラハ城を襲撃。
中にいた国王の顧問官2名と書記1名の計3名を、3階の窓から放り投げてしまったのです。
現在でもプラハ城には多くの観光客が訪れているそうですが、実際に放り投げたのが、下の画像左の×印がついた窓。
これだけだとあまり高くなさそうですが、別角度からみると・・・
高さは約20mもあるそうですから、普通なら命を落とすか半身不随になってもおかしくないですょネ。
ところが当日は幸い(市民にとっては不幸?)にも地面に干し草が積んであったそうで、3人はケガをしただけ・・・命からがらフェルディナントのいるウィーンに逃げ帰って事の次第を報告。
この事件直後、ボヘミア貴族たちは新たにプロテスタント教徒のプファルツ選帝侯フリードリヒ5世をボヘミア王に迎えましたが、そんなことをフェルディナントが認めるわけはなし。
ハプスブルグ家は即座に鎮圧軍を派兵し、1620年の白山の戦いで撃破。
ボヘミア貴族らは財産没収の上、国外追放に。
この厳しい処断にプロテスタント教徒が激しく反発し、その後双方の戦争が長期化したそうな。
そして同地では、窓から人を放り投げたのはこれが最初ではありませんでした。
この事件から遡る事約200年前の1419年に、やはり宗教問題でローマ教会と対立したボヘミア王ヴァーツラフ4世が和解案としてローマ教会派だけの参事会を組織したところ、旧勢力のフス派が激怒。
プラハ市庁舎を襲撃し、ドイツ人市長と参事会員を窓から放り投げ、これを聴いたヴァーツラフ4世がショック死し、その後フス戦争が勃発し20年近く民族運動が続いたとか。
民族性は様々ですが、ボヘミアンは窓から人を放り投げるのが好きなんでしょうか?
今後もしヨーロッパに旅行してチェコ辺りに行かれね方は、あまり窓に近づかない方がいいかも・・・。