今日は、明治維新前後に活躍した剣術・禅・書道の達人、
山岡 鉄舟
の命日・没後130周年にあたります。
1836(天保7)年に御蔵奉行・小野朝右衛門高福の四男として江戸で生まれた鉄舟は、幼少期を飛騨高山で過ごします。
岩佐一亭に書を学び、15歳で五十二世・一楽斉を名乗る程の早世の天才でした。
また剣術は井上清虎より北辰一刀流を、槍術は山岡静山に学び、後に山岡家の養子となります。
勝海舟と西郷隆盛による江戸城の無血開城会談は有名ですが、実はこれに先立ち、山岡鉄舟が単身で官軍駐留地に乗り込み、江戸城明け渡しの基本合意を取り付けたのでした。
身長188cm・体重100kg超という、当時としては凄まじい体格の持ち主であった鉄舟は、
「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」
と大声を出しつつ悠然と敵陣に乗り込んだそうで、そのあまりの迫力に官軍兵士はただ呆然と彼を通したと言われています。
後に西郷隆盛をして、
「金も要らぬ、名誉も要らぬ、命も要らぬ人は始末に困るが、そうでなければ天下の偉業は果たせぬ。」
と賞賛された鉄舟。
明治維新後はその西郷の依頼により明治天皇の侍従(教育係)を10年に渡って務め子爵にも任じられる一方、侠客・清水次郎長とも親交があったいう底知れぬ懐の深さを持つ漢(おとこ)だった、と言えるでしょう。
また剣術でも一刀流の免許皆伝を許され、禅においては三島の竜沢寺・星定和尚の元に参禅し、大悟したと伝えられます。
達筆で数多くの揮毫を残した鉄舟は、その謝礼を快く受け取ったそうですが、それらは金に困った人を見ると惜しげもなく渡してしまい、本人は生涯貧乏だったとか・・・。
そんな達人の心境・思想に興味のある方には、この本のご一読をお勧めします。
『剣禅話』 (タチバナ教養文庫・刊)
同書は彼の生涯を描いた小説ではなく、彼が遺した自筆の書をまとめたもの。
その言葉から、多才にして豪快、清貧にして心優しき山岡鉄舟の生き様に触れることができます。
1888(明治21)年7月19日、胃癌により52歳の誕生日直前にこの世を去った鉄舟は、皇居に向かって結跏趺坐の姿勢のまま絶命したそうで、葬儀の会葬者は5千人に上ったとか。
その足元には遠く及ばずとも、同じ男として憧れる文武両道の達人の冥福を、あらためてお祈り致します。