日本の歴史には数多くの武将が登場しますが・・・最も人々に愛され、数多くの伝説を残した人物といえば、おそらく
源 九郎義経
ではないでしょうか。
今日は、彼の命日・没後830周年にあたります。
源義経像 (中尊寺・蔵)
河内源氏の当主・源義朝の九男として生まれた義経(幼名・牛若丸)。
平治の乱で父が敗死したものの、母が平清盛に命乞いをして許され、幼少時代は鞍馬寺に預けられました。
しかし僧侶になる事を拒み山中で武芸を磨き続けた義経は、異母兄・頼朝が打倒・平家の兵を挙げたことに呼応、下山して頼朝の許に馳せ参じます。
頼朝の命を受け、京都を支配していた従兄弟・木曽義仲を 『宇治川の戦い』 で撃破。
さらに 『一ノ谷の戦い』 では、有名な〝鵯越の奇襲〟で平家本陣を大混乱に陥れて大勝利をもたらし、一気にその名を天下に知らしめました。(↓)
しかし鎌倉からの指示を無視したり、許可を得ずに朝廷から任官を受諾するなどの行動が頼朝を激怒させ、遂には朝敵として追われる身に。
京都を追われ、元服後に世話になった奥州・藤原氏を頼って平泉へと逃げますが・・・頼朝の権力を怖れた藤原泰衡に裏切られ、追い詰められた義経は1189(文治5)年4月30日に正妻と4歳の幼い娘を殺した後、自害して果てたのです。
まだ31歳の若さでした。
お互いに打倒・平家を目指し、嘗ては泣いて再会を喜び合った兄弟。
その2人が何故対立し、追討命令が下されるまで憎しみ合う事となったのでしょう。
兄・頼朝が、義経の人気を単に妬んだだけなのか?
あるいは組織のトップとして、自らの命に背いた部下を身内とはいえ 「泣いて馬蜀を切る」 決断を下したからなのか?
また、慕った兄から追っ手を放たれ自害に追い込まれた弟・義経の心中は、いかばかりだったのか?
いずれにせよ 〝判官贔屓〟という言葉まで生んだ義経・・・これまた多くの謎に包まれている武蔵坊弁慶と共に、〝悲劇のヒーロー〟として永遠に語り継がれることでしょう。
(※ちなみに、『義経=チンギス・ハン』説は、科学的に否定されているそうです・・・残念ながら。)