商 才 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

「政商」 というと、私はロッキード事件で証人喚問にかけられた小佐野賢治氏を思い出しますが、彼よりも遥か前・幕末から活躍した〝元祖・政商〟ともいえる人物がいました。 その人の名は


 大倉 喜八郎 氏

 

今日は、この類い稀なる商才を持った実業家の命日にあたります。


大倉氏は1837(天保8)年に、庄屋の三男坊として現在の新潟県新発田市に生まれました。


幼少期から四書五経を読まされるなど英才教育をうけた後、17歳で上京し麻布の鰹節店に奉公に出ます。


そして早くもその3年後に独立、『大倉屋』という乾物屋を開業。

 

彼が優れた商売の嗅覚を発揮するのは、それからしばらくしてからのこと。

 

ある時横浜で盛んに鉄砲が荷揚げされているのを見た大倉氏は、「この先、戦争が起きる」と直感。 すると即座に乾物屋を畳んで銃砲店に勤めてノウハウを学ぶと、1867(慶応3)年に再び独立して『大倉銃砲店』を開業。

 

新政府側・旧幕府側双方に武器を売って巨万の富を得た大倉氏は政府の御用商人となり、日本初の貿易商社・『大倉商会』を設立して貿易業に着手。

 

その後の西南戦争や日新・日露戦争でも大儲けし、建設・製鉄・食品など様々な業種で会社を設立し、財閥を作り上げました。

 

             ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-大倉喜八郎

 

彼が設立したり経営に関わった企業は、現在各業界の一流企業として多く残されています。

 

大成建設、帝国ホテル、帝国劇場、サッポロビール、日本製靴(現・リーガルコーポレーション)、千代田火災海上(現・あいおい損害保険)、日清製油(現・日清オイリオグループ)、川奈ホテル等々・・・皆さんよくご存じの会社名がズラリ。

 

戦争を通じて事業を拡げた大倉氏は「死の商人」・「政商」と非難を浴びたようですが、彼の偉いところはその利益・私財を慈善事業や、今でいうメセナ活動に還元したところ。

 

たとえば各地に商業学校を設立しましたが、東京に作った大倉商業学校は現在の東京経済大学ですし、収集した多くの美術品・骨董品は、日本初の私立美術館・大倉集古館に所蔵・公開されています。

 

大倉山公園(神戸市)など、日本各地にその名を残す彼の業績・商才は、「死の商人」という悪名を凌駕して余りあるといえましょう。

 

1926(大正15)年夏・・・彼が88歳の時に、特注のカゴに乗ってそれを人夫延べ200人に担がせて南アルプスの赤石山頂に〝大名登山〟をした光景を某TV番組で見たことがありますが、当時この赤石山一帯はすべて彼の所有であり、現在南アルプスに点在する山小屋の殆どは彼の作った東海バルブの子会社だそうですから、その規模は一般人の想像の域をはるかに超えています。


その登山から2年後の1928(昭和3)年4月22日、92歳で大往生を遂げた喜八郎氏の戒名は、


「大成院殿礼本超邁鶴翁大居士」

 

(こんな物凄い戒名、いったいお布施はいくら包んだんだろう?) ・・・商売柄、思わず考えてしまう私。

 

事業も戒名もケタ外れだった大政商のご冥福をお祈り致します。笑3

 


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