忠 誠 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

「虎退治」、「賤ヶ岳の七本槍」で有名な武将・・・と言えば、


 加藤 清正


今日・6月24日は、この熊本藩初代藩主の命日にあたります。

(ちなみに、誕生日も同じ6月24日なんです。)


1562(永禄5)年、尾張に生まれた清正は、母が豊臣秀吉の生母と親戚関係にあったことから10歳過ぎから秀吉の小姓として仕え、14歳で早くも170石を与えられるなど可愛がられました。


常に秀吉に付き従い、「本能寺の変」の後に起きた山崎の戦いや翌年の賤ヶ岳の戦いに参戦・・・特に賤ヶ岳では敵将を倒す武勲を上げ、七本槍の1人として3,000石を拝領。


その後秀吉の九州征伐に同行し、改易となった佐々成政の後を受けて肥後北国・19万5千石を与えられ、熊本城に入城。


更に朝鮮出兵(文禄・慶長の役)でも獅子奮迅の活躍を見せます。

(この時に虎退治を行ったと伝えられていますが、これは江戸時代に入ってからの創作だそうです。)


しかし、それ程までに強く恐れられたことは事実だったようです。


            ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-加藤清正


その間、一度は石田光成と衝突し秀吉の逆鱗に触れて京都で蟄居させられたものの、大地震が起きるや真っ先に秀吉の居城・伏見城に配下と共に駆けつけ警護にあたったことを評価され許されたという逸話も残している程、終生に渡って秀吉に尽くした清正。


その忠誠は、秀吉の死後も衰えることはありませんでした。


徳川家康の台頭後も、堅牢な熊本城を築城するなど牽制を続けた清正は、家康が秀吉の子・秀頼を二条城に呼びつけた際も秀頼に寄り添い彼をガード。


しかしそれから3ヶ月後の1611(慶長16)年6月24日、49歳で病死。

毒殺説が根強く囁かれていることで、家康がいかに彼の力量を恐れていたかが伺えます。


それから4年後の大阪夏の陣で大阪城は炎上、秀頼の死によって豊臣家は滅亡するのですが・・・もしあと10年、清正が存命であったなら、日本の歴史は大きく変わっていたかもしれません。


度重なる遠征であまり領地に腰を落ち着けなかったにも関わらず、領内の河川・土木工事に手腕を発揮し、現代も県民から慕われている名将・加藤清正。


彼のような腹心がいたら・・・多くの経営者はそう思うことでしょう。笑2



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