反 省 | ナベちゃんの徒然草

ナベちゃんの徒然草

還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

裁判員制度も導入以来1年半が過ぎてすっかり定着、最近では死刑判断を下さねばならないような重大事例も出てきました。


人命を奪うという決断を下すことは、〝素人〟の裁判員にとって非常に辛く重いものがあるでしょう。


先週無期懲役判決が下された 「耳かき店員殺人事件」 に関しても、裁判員に初の死刑求刑事例を裁くというプレッシャーがあったことは容易に推量されますが、同時に〝裁判員制度の限界〟をも感じました。


さて今回の判例を含め、かねてから私は裁判に関して疑問に思っていることがあります。


それは、〝情状酌量〟の判断基準。


私には、この〝情状酌量〟が極刑を回避するための〝切り札〟として逆利用されている・・・そんな気がしてなりません。


刑法第66条には、「犯罪の情状に酌量すべきものがあるときは、その刑を減軽することができる」 とあります。


この条文自体には私も疑義を持ちませんが、その判断を誰がどう行うのか?・・・ここが問題なのです。


典型的なのは、加害者(被疑者)が反省しているか否かが問われるケース。


判決文の中で、「被告は深く反省しており・・・」 などとして求刑よりも軽い量刑を言い渡す事例が散見されますが、反省の度合いをどうやって確認しているのでしょうか?


極端なことを言えば、被疑者本人でさえどこまで反省しているのか分からないことを、第三者である裁判官が確信を持って判断することは殆ど不可能だと思うのです。


特に裁判員制度が導入されて以降、検察・弁護側双方が裁判員の心証に訴えかけるような法廷戦術に重点を置いているのが顕著・・・ますます客観的な判断を下すのが難しくなっている印象があります。


           ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-裁判員裁判


私の個人的見解ですが・・・基本的には、裁判官・裁判員に情状酌量の判断を求めるべきではないと思うのです。


被疑者も人間ですから、少しでも量刑を軽くしようと必死に演技する場合も多々あるでしょう。


光市母子殺害事件でも、一旦被告人に反省が見られるとして無期懲役の判断がなされた後、被害者(遺族)をあざ笑うような手紙の内容が公開されるや、状況が一変したことは記憶に新しいところです。


殺人事件のような重大事件で、「反省している」 として死刑判断を避け無期懲役を言い渡した場合、仮出所した被告が再び殺人を犯したら、判決を下した裁判員は (少なくとも精神的に) その責任を追う事になるでしょう。


特に強盗殺人などの重大犯罪においては、被疑者の育成環境や反省度合いなどの情状酌量を裁判官ら第三者に委ねるような 「相対判断」 ではなく、あくまでも起こした犯罪の重さだけでの 「絶対判断」 をさせるべきではないでしょうか。


被疑者に前科があろうがなかろうが、犯行が残忍であろうがなかろうが、そして犯行後に反省していようがしまいが・・・尊い人命を自らの意志で奪ったという事実は厳然としており、それを消すことはできません。


裁判員裁判のように毎回違う〝素人〟が判断を下す場合、相対判断をすれば当然量刑にバラつきも出るでしょうし、それは取りも直さず被害者の命の重さが〝裁判員選定の運〟で変わってしまい、公平性が著しく失われることになりかねません。


私は唯一その情状酌量を行える・・・すなわち加害者が反省しているかどうかの判断を下す権利があるのは、被害者及び被害者家族だけだと思うのです。


ビジネスや日常生活においてトラブルに見舞われた時、その相手を許すかどうかはあくまで当時者本人の気持ち次第であり、第三者が出てきて 「許してやれ」 と強制されても納得いかないのと一緒ではないでしょうか。


2004年に成立した 『犯罪被害者等基本法』 により、現在では犯罪被害者やその家族は裁判に於いて意見陳述ができるようになりました。


その場で被害者 (遺族) が犯人を赦すと発言しない限り、みだりに情状酌量を認めるべきではないと思うのです。


(そんな事は有り得ないだろう・・・と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、交通事故裁判では被害者から減刑嘆願書が出されるケースはしばしばありますし、過去には殺人事件の被害者遺族から犯人の死刑判決を減軽するよう嘆願が出されたケースもあるのです。)


もしそうでなければ、再犯や〝お礼参り〟防止のため、死刑と無期懲役の間に釈放なしの終身刑を設けるべきです。


それが裁判員制度を安定して運用するための最低要件だと思うのですが、皆さんはどうお考えになるでしょか?


2人も殺害した犯人が無期懲役、何年後か先には塀の外に出られる・・・私には軽い量刑としか思えません。うー



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