昨年末、宇宙飛行士・野口聡一さんがロシアの宇宙ロケット・ソユーズに搭乗、現在宇宙ステーションで活動されています。
一緒に搭乗した宇宙飛行士がロシア人とアメリカ人・・・かつて20世紀後半に激烈な宇宙開発競争でしのぎを削り合った米ソ両国が、今や〝呉越同舟〟。
あらためて時の流れを感じますが、今日は宇宙開発において永遠にその名を残すであろう旧ソ連の有名飛行士、
ユーリー・アレクセーエヴィチ・ガガーリン 大佐
(Yurii Alekseevich Gagarin )
の命日にあたります。
1934年にグジャーツク市(※現在のガガーリン市)に4人兄弟の3番目の子として大工の父親の元に生まれたガガーリンは、子供時代から真面目で勉強家だったそうですが、数学の教師がパイロットとして従軍したことが後々彼の人生に影響を与えたようです。
金属工場の見習いになった彼は、技術教育を受けるためサラトフの学校に送られ、そこでエアロクラブに入り、飛行機の魅力に取り付かれます。
工業学校卒業後の1955年、彼は空軍士官学校に入学。
卒業後はノルウェー国境の基地に配属されました。
1960年代に入るとアメリカとの宇宙開発競争が本格化、彼は宇宙飛行士候補者20人の中の1人として選抜されます。
最終的には彼の身長が158cmと小柄なことが狭い宇宙船内の活動に適していると判断され、人類史上初の有人宇宙飛行士に抜擢されました。
1961年4月12日、ボストーク1号に乗り込んだガガーリンは見事大気圏外の地球周回軌道に乗り、地球を一周して無事ロシア領内の牧場に着陸。
大気圏外飛行時間・1時間48分、最高高度・約302km、飛行距離・約38,620km・・・飛行は地上からのコントロールと自動制御によって行われ、ガガーリン自身が手動操縦することはなかったとのこと。
とはいえ当時の技術は現在からみれば遥かに劣っており、大気圏に再突入した後は地上7,000mで飛行士を座席ごとカプセルから射出してパラシュート降下をさせるという、生存確率が余り高くない荒っぽい方法だったとか。
ところでガガーリンといえば、「地球は青かった」 というコメントが有名ですが・・・実は彼自身、この言葉は口にしていないのだそうです。
着陸翌日の記者会見で、彼はこうコメントしています。(イズベスチヤ紙)
「地球の明るい表面から、星の見える漆黒の空への色彩豊かなグラデーションを見ることができた。
その境界線は非常に繊細で、あたかも帯の膜が丸い地球を包んでいるようだった。 それは淡いガルボイ色(※水色、マリンブルー)であった。
そしてそのガルボイ色から黒への移り変わりはこの上なく滑らかで、言葉で伝えることは出来ない程の美しさであった。」
・・・実に叙情的な表現をしているんですネ。
多分日本のマスコミが、この中からガルボイ色の部分だけを抜き出して、後日雑誌の見出しや彼自身の著作の題名として使ったものが一般化したものと思われます。
それが証拠(?)に、欧米では 「地球は青かった」 という表現は使われていないのだとか。 ヘェ~
その後の彼は、ソ連の広告塔として世界中を旅行。
1962年には来日もしていますが、一方で生活の激変がストレスとなったのか、自傷行為を引き起こしたこともあったそうです。
祖国の英雄を飛行事故に巻き込みたくなかったからなのか、その後は宇宙船に搭乗する事が2度となかったガガーリンでしたが・・・1968年3月27日、飛行指揮官になるため戦闘機・ミグ15に訓練として教官と共に乗り込んだ彼は、離陸から僅か12分後に墜落死したのです。
34歳の誕生日を迎えたばかりの余りにも若すぎる死・・・少年時代から夢見たパイロットとしての最期だったのが、せめてもの慰めだったかもしれません。
〝人類で初めて大気圏外から地球を見た男〟の冥福をお祈りします。