ここのところ、オグシオのコンビ解消ばかりがクローズアップされていますが・・・数日前、長年日本で活躍したアメリカ人スポーツ選手が静かに引退を発表しました。
その人の名は
ミッシェル・スミス
この名前だけでピンときた方は、かなりのオリンピック通・・・いや、ソフトボール・ファンでしょうネ。
1993年に来日し、今年まで女子ソフトボールの日本リーグでプレー。
16シーズンで歴代1位の通算172勝を挙げ、うち6度の完全試合、13度の無安打無得点試合を達成。 おまけに首位打者も3度獲得するという、所属チーム・豊田自動織機のまさに大黒柱として活躍し続けました。
プロ野球界で言えば、イチローと松坂2人を足したような存在だったと言えましょう。
オリンピックでは1996年・アトランタ、2000年・シドニーの両大会で、アメリカチームの連覇に大きく貢献。
日本チームを応援していた我々には、ブロンドの髪をなびかせながら剛速球をビシビシ投げ込むサウスポーの彼女が、マウンドに立ちはだかる〝仁王様〟(失礼)に見えたものでした。
<michelesmithjapan.comより>
1967年、アメリカ・ニュージャージー州に生まれた彼女は、ソフトボールのコーチだった母親の影響で5歳からプレーし始めたそうです。
15歳からピッチャーに転向、178cmの恵まれた体格を生かしたダイナミックな投球で頭角を現しましたが・・・1986年7月、19歳の彼女は父親の運転する車の事故で車外に放り出され、左腕に大ケガを負ったことがあるのです。
ピッチャーとして致命的な左腕のケガでしたが、9ヶ月の苦しいリハビリに耐え抜き、オクラホマ州立大学のソフトボールチームにピッチャーとして見事カムバックを果たします。
カムバック当時の球速はなんと3マイル(4.8キロ)だったとか・・・。
不屈の精神力、ソフトボールができる喜び、そしてケガの苦しい経験・・・これらがミッシェルの気迫あふれるプレーにつながり、自分の体を大事にして長い選手生命を維持できた要因なのかもしれません。
来日時は1年で帰国する予定だったのに、日本の好環境に惚れ込んだ彼女は今年まで日本でプレー、2004年はアテネ五輪にも出場せずに豊田自動織機で投げ続けました。
今年、北京五輪で日本代表が悲願の金メダルを獲得できたのも、宿敵・アメリカチームのエースである彼女が、長年日本でプレーしてくれたおかげでレベルが上がり、かつ外国人選手に対するコンプレックスが無くなった事が大きな要素だったのではないでしょうか。
日本代表のエース・上野由岐子投手が憧れたスミス選手・・・引退後は日米を往復して子供たちを教える傍ら、「2016年の五輪にソフトボールを復活させるため働く」と語っています。
殆どのマスメディアが大きく取り上げなかった彼女の引退ですが、私は日本ソフトボール界に多大な貢献をしてくれた彼女に、大きな感謝の気持ちを込めてメッセージを送りたい!
〝ありがとう、スミス選手。
そしてお疲れ様でした。
これからもソフトボール発展のために
精一杯頑張ってください!〟