どれほど思想的に変ろうとも、高校生には社会はもちろん、自分の生活範囲でさえも変えられる力は持ち合わせていない。あくまで社会で決められたレールに沿って進むことしか許されてはいない。そのレールから外れた生き方を選ぶことは、かえって人生の選択肢を狭められることになってしまう。より幅広い選択肢を得るためには決められたレールに従うしかないというパラドックスがそこには存在する。
だからこそ、変えるとするならば自分自身の心の中でしかない。できる限り表に出ないように。具体的な行動には移さないように、イデオロギーのみを構築するしかない。内なる炎は往々にして、外側で燃やすよりも盛大な火炎へと膨れ上がりがちになる。たとえ自分自身であっても抑え切れるものではない。
「学校を代表とする公教育の主張するものは正義だとは限らない。」こう考えるだけでも大きく異なってくる。面従腹背という能力を手に入れたのも高校時代の特質だった。これが大人に近づくというものなのであろうか。
大学受験へ向けた成績至上主義からは逃げられない中でも、着々と独自の思想を形成してきた。週末にはまだ電化されていない田舎の鉄道を利用して、より大きな書店へ通うことが至上の価値を持った。本を選ぶ能力。これは唯一にして最大の能力へと成長した。
不思議と私の思想、イデオロギーとしての成長は大学受験にはマイナスにはならなかった。一般的には、余計な思想の介在は邪道にそらす悪者とみなされるのが常なのだが、そうならなかった。思想を形成することでアイデンティティーもしくは自信へと昇華されたのかもしれない。また、リテラシーが飛躍的に向上することで、高校の教員レベルの授業が大したものではないのだと感付き始めていた。このことも自分を形成していく中で、邪魔な成績至上主義を心のうちで排除することに役立ったのだと考えてられる。
読書に没頭することで、学力としてはかなり向上していった。それでもテストの点数にはどうしても反映されない部分がある。いわゆる「小テスト」と呼ばれていた類で、毎週、英単語や熟語、古文の文法やらを暗記することを課せられ、その成果をテストされる。なんらの理屈も理論も必要ない暗記テストである。この小テストではどうしても合格ラインを越えられないでいた。何の理屈も必要としないのだから、周囲からするとただただ私が怠け者に見えてくる始末でしかない。
こうして小テストは私への叱責のフラグと化した。一人だけ新任の英語教師が、私がこうした短期記憶ものを苦手にしているようだと気付いたのだが、だからとしてどうしようもない。新任教師ではいくら才能があっても発言権は無いに等しい。学校としての方針に変化を加えることは難しい。小テストの連続実施という悪夢は止むことがなかった。本当に夢に出てくるような悪魔の情景であった。
叱責とは失敗に対してなされるものだ。失敗ばかりの高校生活ではすっかり自信喪失、いやさらにその向こう側にあるような鬱屈した人生観を抱くしかなくなる。思春期にこんな経験を積み重ねることは実に手厳しい。這いあがれなくなる。その気力から根こそぎ奪ってしまうからだ。
そしてこんな高校時代の記憶が消えることはない。鮮明にそれらの光景が繰り返して再生される。実に鮮明で、つい昨日のことのような錯覚に陥る。私をいつまでも苦しませている。