一般に人々は、高校だとか大学だとか、その先にある就職だとか、自分たちの将来についての情報をどこから得ているのだろうか。私はついに見つけることができないでいる。私に欠けた重要なもののひとつには、こうした未来についての情報の圧倒的な不足である。これらの情報をいっさいに得られずに一般社会を生きていかなければならない。どんな形であれ、情報弱者というものはハンディキャップの中でも最たるものに位置する。
それとは気付かないままに情報弱者として人生の階段を昇り続けることになってしまった。その結果が常に生じる不適応の根源である。どんな手段であっても良いから情報を得ていれば、ある程度の準備や、もっと洗練された選択ができていたであろうにと後悔している。これこそが「無知による悲劇」と呼ばれる酷い類いの現象なのだ。悲劇を連続して経験してしまうと取り返しのつかない失敗につながる。やはりどのように足掻いたところで、公開の念を抱くことしかやるべきことが思いつかない。
尽きるところ、私には受験勉強そのものが理解できなかった。大学入試を意識的に模したテストで点数が取れるかどうか、あるいは暗記テストで合格ラインに達するかのみに価値観が注がれている。それ以外のものは蛇足でしかない。まったく評価の対象にはならない。そんな進学校というコミュニティはある種の宗教団体だった。信じるものが異なる異端者は徹底的に排除されてもそれが正義とされる。そこから科学的だとか理知的な説明を得ることはできない。
具体的に私のみ起きたのは、成績の大急降下だった。
高校入学前に一年生のクラス編成を決めるためのテストが行われた。このテストは高校入試と同程度のレベルのテストで、出題範囲も同じである。そのテストで優秀な点数を取り、成績上位者のクラスに入ってしまった。1クラス40人で一学年8クラスだったから、約320人の生徒がいる。みんな大学入学を目指すような人たちの集まりでもある。その320名のうち2つのクラスが優秀者のクラスとして構成され、大きな期待を受けるクラスとなる。つまり私は上位80位には軽々と入ってしまっていたのだ。それがこの先の不幸を暗示していたとは誰も考えまい。
そして入学して直後に再び実施されたテストで、学年順位で311番目になった。ほぼ300人抜きに近い現象が起きた。この入学直後のテストというのは、中学卒業式から高校入学式の間に課された宿題から出題されるものだった。完全に独学で対応しなければならないテストである。特にひどかったのが数学で、これは公式を覚えていなければまったく手が出ない。
ここに私も苦手なことが集約されたのが不幸の始まりなのだろう。私は単に教科書に載っている公式を見ただけではまったく頭に入ってこない。その意味、論理を理解しなければ覚えるという機能が働かない。よってテストはあてずっぽうの数字を答案用紙に書くだけとなった。
もうひとつは国語のテスト。主な課題として百人一首のうち20首の丸暗記を求められた。私には無理だった。いや無意味なことだった。
ただテキストに書いてあるやまと歌を暗記するという行為自体が理解できない。だから取り掛かることすらできない。古文読解の経験のない高校生未満ではやまと歌の言葉の意味、和歌そのものの意味はまったく知らない。テキストは古文の単語の意味は解説しているが、私はその意味不明な単語の意味をつなぎ合わせたものを文章として認識できない。まだ授業が始まっていないのだからノーヒントであり、古文という雰囲気のような感覚も体験できない。ただ「覚えなさい」だけでは私は動けない。
高校というところはこんな個人の思惑や感情、特性などは完全に無視する教育機関である。進学校は目的が大学入試に絞られるため、余計なものは排除されている。だからその傾向はより顕著になる。その結果として私の成績は最後尾に位置することとなった。進学校の教師は大変そうでもあるが実に単純でもある。点数や学年での順位という数字をもとに生徒への接し方を決めれば良い。実に簡単に私は落ちこぼれになった。教師は落ちこぼれとして接してくる。方んとうに単純としか感じようもなく、それ以外に考えなくても良い存在となっていた。