高校生という15〜18歳の年頃は、発達段階や交友関係による情報の格差が最も激しくなる年代であることはあまり注目されていない。専門家の間や、発達障害に苦しむ当事者にとっては痛く感じ入る部分であるのに、一般からは軽視されてしまうことは大いなる不幸だとしか言いようがない。理解されない故の苦しみが最初に始まるのはこの高校時代だったと述懐する当事者は多いことだろう。
ここでは、中学から高校に入学して人生のつまづきを実感する私を振り返ってみたい。
すべての元凶を明らかにすることは不可能なことだと知っている。だが私の恨みはどうしても高校時代に向けられてしまう。割合にしてみればほぼ50%くらいと見積もっても誇張ではない。たった3年間が数十年の人生を半分の割合で狂わせてしまうと考えれば、これほど恐ろしいことはない。
単なる私も思い込みだけではない。確かに高校時代だけに人生の苦しみが集約されるわけがないことは、道理では理解している。しかし厄介なことに「恨み」という性質を含んでしまっている。恨みは道理だけでは納得されず、非論理的、非科学的に信奉されてしまう。
心のどこかで常に高校時代のせいで自分の苦しみが始まったのだと思い込み続けることをやめられないでいる。なぜこの恨みを消去できないのか。分析することは容易ではない。
私は意外にも中学時代はすこぶる優等生であり、それを誇りに思っていた。テストの成績も上位レベルで部活動のスポーツでも中学校のエース級であった。学年一小さい身体でありながら、瞬発力は目を見張るものがあり、思い切りが良かった。自信に満ちていた自分を思い出すことができる。
のちに大学の臨床心理学の教授から教わったことだが、人生において自分自身が最も輝いていたと述懐できる時期のことを「ゴールデンタイム」と呼ぶそうだ。私にとってのゴールデンタイムは間違いなく中学時代であった。このゴールデンタイムが見事に打ち砕かれて終焉を迎えるのが高校への入学だったのだと定義できる。ゴールデンタイムの反対語は「Darkest Era」ダーケスト・エラとでもなるだろうか。人生の帰路における大暗転は高校に入学してすぐに現れた。
私の入学した高校はいわゆる「進学校」と呼ばれる学校になる。公立高校だから学区は定められていたが、その学区内で大学進学を目指す子どもが入学してくる学校である。よって、全ての生徒の目標は大学へ進学することにあった。いや正しくは「生徒本人がどう考えているかはわからないが、全ての生徒が大学入学を目指すことになっている」というのが進学校の定義になる。つまりここで悲劇を被るのは、それとは知らずに進学校へ入学してきた子どものことだろう。「子ども」ということは実に重要なことで、発達段階に大きな差があることを忘れてはならない。「すべての子どもが等しく、中学を卒業することになれば将来の希望や目標を明確に抱くことができるまでに発達する」という認識は誤りだからである。
例として私自身は、ちゅ学を卒業する段階で大学というものはまったくその意味を知らなかった。高校を卒業してから入学できるところだという知識もなかった。大学という単語の意味を辛うじて知っていたくらいで、そこに入学するだとか、それ以外に就職するという道があるとかも一切知らなかった。完全なる情報弱者でしかなかった。だがそういう子どもも存在することを忘れてはならない。優秀な中学生であっても発達段階としてはそこまで届いていないという例が私自身なのである。