こんにちは、アリーシャです。

 

先週末、半年振りくらいに学生時代の友人と会いました。日比谷で映画を観て、ごはん食べてお茶してのフルコースで久々にとても楽しかったです。

 

彼女は帰国子女かつ頭が良く、大学卒業後は産休育休以外は外資系でずっと働き続けているキャリアウーマンです。

英語が話せて当たり前の世界で長らく働いています。そんな彼女に私が49歳で英語の職場で働き始めたこと、職場で感じたことなどを会うと話しています。

 

お互いが感じている外資系あるあるの話もでき、楽しかったのですが、彼女にふと言われたことで考え込んでしまいました。

 

私自身は娘の学費が一番かかるこの時期にアラフィフの自分の学習にお金はかけられない、だから英語を使う仕事、ネイティブと話さなれければならない職場に身を置けばお金を稼ぎながら英語の勉強ができて一石二鳥と思って今の仕事に応募したところがありました。

 

私が英語が話せるようになりたいというのも今の職場に応募した理由の一つだよと話すと、

彼女に「そもそも50歳ぐらいで日本で生きていて今さら英語を話せるようになる必要ある?」と言われたのです。

 

確かに!そこから私はなぜ自分が英語を話せるようになりたいのか?と自分なりに考えてしまいました。

 

表面的な理由としては

①今の職場では英語によるコミュニケーションが不可欠。英語力を磨いてホワイトで居心地のよい今の職場で働き続けたい。

②英語を使う仕事の方が派遣では時給が高い。

 

ということがあげられます。

もう少し深掘りすると、

 

③若い頃英語学習に時間とお金を注いだので、そのリソースがもったいないから有効活用したい。

 

④英語の他にこれといって役に立つ武器がない。

 

という現実があります。

留学から戻ってきて出産するまでは英語をビジネスで使う仕事をしていたので。

 

そして、最後にたどり着いたのは、

 

⑤自分が異文化コミュニケーションを欲しているということでした。

 

今の職場で働き始めて、国籍も年齢も、性的嗜好(たぶん)も色んな人に会い、日本の50歳主婦としての生活では会えなかった彼らと少しでもコミュニケーションを取れることがとても楽しいし面白いのです。

 

さらになぜ英語でコミュニケーションをとりたいと思うのかを突き詰めると、狭い価値観の中に甘んじたくない、多様性に触れていたい、という欲求があるのだと気がつきました。

多様な価値観、感覚、言葉に触れることで日本社会や親の価値観、今なら妻や母としての役割にとらわれない本来の自分を取り戻すような感覚が私にはあるようです。私が若い頃、留学中に感じた日本社会や親の価値観からの解放感と自由は私にはとてつもなく大きなものでした。

だから、英語学習は私にとって自分の精神の自由の確保という側面もあるのだと行きつきました。


最近、久しぶりに朝ドラ「虎に翼」にハマっています。主人公寅子の腑に落ちないことは自分で理解したいという思いに強く共感しています。

いつの時代も学ぶことは自分の「翼」をもつことにつながるのかなと思います。

 

まあ、いろいろ御託を並べても、私の英語力の伸びなどは本当にたいしたことがなく、今も仕事では冷や汗かきまくりです悲しい

 

例えば、先日も上司の言っているHe can’t come. がcan なのかcan't なのか?一瞬ものすごく頭の中???でいっぱいになりました。まあ、話の流れ的にcan'tだよね、という理解で対応し、それで正しかったのですが、can'tのtは音がほぼ消えるので怖いなと思います。

 

でも、私たちも日本語を話すときに言葉の一語一句をすべて確実に理解しているかというとそうでもなくて、話の流れや状況、相手の様子などで理解している部分が多いということにも気づきました。

 

どの言語でも大事なのは目の前の相手を理解しようとする気持ち、と誠実に対応することなのかなと感じています。

 

今月から新しいコンテンツになったので、NHKのビジネス英語の勉強を再開しました。書店でテキスト購入後、スマホのストリーミングで音声を聞いています。

今年はシリコンバレーが舞台だし、主人公の職場の先輩はインド系でなまりがあるしで、インド系上司の英語に悩む今の私には興味の持てる内容となっています。

 

 

 

そういえば、週末出かけた日比谷でも外国人旅行者にこのカフェに行きたいんだけど・・・と英語で聞かれて道案内をしました。

 

ミッドタウン日比谷の中にある素敵な和カフェでその話を友人にしたら、そこに行こうよ、とご飯の後はそのお店でお茶をしました。



季節限定の抹茶餡いちご大福、すごーく美味しかったです。