ホスピスあれこれ | ホームホスピス われもこう

ホームホスピス われもこう

熊本にある介護施設「ホームホスピス われもこう」のブログです。


ホスピス(hospice)はもともと、ホスピス運動として始まりました。
20世紀に入ってっからのイギリスに始まるホスピス運動ですが、
その後オランダをはじめ、ヨーロッパの他の国々に、そして北米に広がりました。

日本に伝わってきたのは1980年代のことです。
静岡県の聖隷三方原病院ホスピスや、大阪府の淀川キリスト教病院のホスピスが、その草分けです。

日本では、それまでの脳血管疾患で亡くなる人に代わって、ガンでなくなる人の数が急速に増加していった時代と重なります。

脳血管疾患で亡くなるときは、苦しむ時間はほとんだなかったと言っても過言ではありません。これに対して、各種ガンの治療の予後は芳しくなく、しかも当時はガンでなくなる時は、がん性疼痛の管理技術はまだあまり進んでいませんでした。

患者は苦しい闘病生活を余儀なくされ、しかも致死率が高かったため、「死に至る病い」というイメージがこの病気にはつきまとっていました。言い換えれば、QOLが非常に低かったのです。

医師は、患者の家族の期待や、何よりも患者本人の「生きたい」という切なる願いに応えて、一日でも延命しようと奮闘努力するのですが、結果的にはそれが患者を大いに苦しめることにもなっていました。

ところで、治療を続けているある段階で、「延命」から「緩和ケア」へと切り替える決断を医師はもとめられるのですが、その判断は医師自身の思いに加えて、関係者の期待も希望も錯綜する中での、極めて微妙な問題です。

「何としてでも延命を図るのが医師の使命である」という思い込みが、何の疑問も抱かれずに「常識」であった時代もあったのです。今日では、医師の方で切り替え時を的確に判断していても、患者の家族が、延命を強く希望することの方が多い、というふうに聞いています。

「一日でも永く生きていて」というその気持ち、わからないこともないのですが、患者の気持ちを十分確かめた上で、患者にとって最も良い選択肢を、関係者がじっくり相談して決めていくことが大切なことではないでしょうか。

ホスピス運動の指導者たちの懸命の訴えの成果もあって、1990年代に入ると、時代は「無理な延命はしない」方向への動き始めました。

認定施設の緩和ケア病床に、国から定額のお金が支払われるようになるまでにそれほど年数はかかりませんでした。

海外からある朗報が日本に届きました。電池式のモータードライブで持続点滴静注を可能にする装置がドイツで開発されたのです。それが日本にも導入されるようになると、自宅でも緩和ケアを受けられるようになりました。在宅ホスピスの始まりです。

今では、熊本県下でも緩和ケア技術を習得した医師によって、在宅ホスピスサービスが提供されています。

ホームホスピスわれもこうでも、末期ガン患者が入居されるときはこのサービスの提供を受けることができます。(国から対緩和ケア病床並みの定額の支給はありませんが。)  (南風)