先日の記事は、SDGs、つまり「持続可能な開発目標」というものについてでした。
この「持続可能性」について調べていると、この「エコロジカル・フットプリント」という言葉にぶつかります。
これはSDGsに比べて、日本語に直訳するのが少し難しい言葉ですが、あえて直訳すると「生態学的な必要面積」という感じでしょうか。フットプリント自体は「足跡」という意味ですが、工学の分野でも「xxに必要な広さや面積」という意味で使われます。
このエコロジカル・フットプリントというのは、Wikiによれば、
「地球の環境容量をあらわしている指標で、人間活動が環境に与える負荷を、資源の再生産および廃棄物の浄化に必要な面積として示した数値である。通常は、生活を維持するのに必要な一人当たりの陸地および水域の面積として示される。」
ということで、つまりエネルギー消費にしろ、二酸化炭素の排出量にしろ、地球の限られた資源を使い、限られた「地球」という惑星に廃棄物が垂れ流されたときに、どの程度の「負荷」つまり「負担」を担わせるか、ということを、それらがきちんと吸収されるのに必要な地球面積(フットプリント)として表しています。
これで言うと、もちろん資源の消費が盛んで、廃棄物(排出ガスも含めて)が多いほどこのフットプリントが大きいわけで、勢い、先進国のフットプリントは相対的に大きくなる。
国としてのフットプリントは、この「一人当たり」のフットプリントx人口なので、国によっては大きくなるところがありますが、基本的には一人当たりのフットプリントを評価することで、その国のエネルギー消費と廃棄物の量が「持続可能」か、ということを判断する指標とするわけです。
これによると、すでに人類は「持続可能な」数値を超えるフットプリントに達していることが明らかになっていて、今のこの世界の人類が今のままの生活を送ろうとすると、地球がいくつあっても足りないほどの「負荷」を与えていることがはっきりしています。
つまり簡単に言えば、今のままの状態ではすでに「持続可能ではない」、地球環境は維持できない、ということ。
昨日の「王侯・貴族以上の生活」ということで書いた「現代の」私達の生活は、この持続可能性の犠牲の上に成り立っているわけです。
持続可能性については、経済学者のハーマン・ディリーが、次の三つの簡単な定義を示しています。
1.土壌、水、森林、魚など「再生可能な資源」の持続可能な利用の速度は、その供給源の再生速度を超えてはならない。
⇒ つまり、例えば魚を取る場合、その魚がどんどん数が減っていくようなとり方をしてはいけない。
2.化石燃料、高品位の鉱石、化石地下水など「再生不可能な資源」の持続可能な利用速度は、持続可能なペースで利用する再生可能な資源への転換する速度を超えてはならない。
⇒ つまり代替手段が開発されるまでもたせなければならない。
3.「汚染物質」の持続可能な排出速度は、環境がそうした汚染物質を循環し、吸収し、無害化できる速度を超えてはならない。
⇒ つまり環境汚染がどんどん蓄積するようなことがあってはならない。
定義としては単純ですが、この三つの「持続可能性」のどれ一つとっても、今の人類は守れて居ないことは明らかですよね。
リサイクルにしても、ただ単にリサイクルすればいい、というものではなくて、それが環境負荷を軽減する方向に行くだけの「実際の効果」を上げなければ単なるポーズか自己満足に過ぎない、ということでしょう。
この現状を本当に突き詰めて考えると、もう「経済が発展する」「成長する」という今まで「善」とされていたものも見直さなければいけないのかもしれません。
そう言えば、先般の参議院選挙の候補者たちの「公約」やら「取り組み」の中身は、すべて「生活を向上」させ、「経済を発展」させ、より「豊かな」国を作る、ということに関してはどの政党も候補者も同じでしたね、手段が違うだけで・・・・。
もちろんこれ等は私達有権者の望みではあるにしても、それでなおかつ「持続可能な地球」をつくることができなければ、長い目で見たときにはこれらは「善」とは言えなくなる、ということでしょう。
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