【神様の話】

 

日本人は、無信仰の方が多い割に、熱心に神社仏閣でお祈りされる方は多いですよね。

私はあまり信心深い人間ではありませんが、私の祖母は、とても信心深く、独自の教えを説いて人の心を助けていた人なので、小さい時に祖母からよく聞かされていた神様のお話をしたいと思います。

難しい宗教学的、哲学的なお話はしませんので、安心して気軽にお付き合いしていただければ幸いです。

まずは最初に、『この世に神様はいるのかいないのか』また『いるとしたらどこにおられるのか』という問題と、もう一つは『神様はどのようなお姿をされているのか』という問題です。あなたはどのように思われますか。

いると思っている方の多くは、信仰している方、宗教団体に入って熱心な活動をしている方、そのような方は、当然その宗派の神様を信じておられると思いますし、姿は見えなくても神様の存在を否定される方はおられないと思います。

いないと思っておられる方の多くは、「目に見えない神様がいるとは信じていないが、ご利益を頂けるのなら、いたらいいな」神社仏閣に行けば「損をするわけでもないし、とりあえず良いことが起こるよう手を合わせて拝んでおこうか」くらいの感じでしょうか。

神様のお姿に関しては、輝く光のようなお姿、神社にある仏像のようなお姿、大きな大仏様の様なお姿、聖母マリア様のようなお姿、いろんなイメージがあると思いますが、はっきりこれといった答えはないようです。

祖母は、神様の話を私によくしてくれましたが、私が生まれる以前に祖母が身近な人に伝えていた神様の話が近隣の人々に伝わると、地域のお寺の関係者に、異端児扱いされ迫害を受け大変苦労したと言っていました。

祖母は幼い時に母親には生き別れ、父親には死に別れ、父方のおばあさんに育てられました。大人になって満たされない心のよりどころを信仰に求め、信仰を極めた人を求めて、教えを請いにどこにでも行ったと言っていました。

その人たちから、いろんなお話を聞く中で、祖母は独自の信仰心を持つようになったようです。

祖母の神様の答えは、
『神様は、いると思えばいるし、いないと思えばいない。いると信じる自分自身が神なのだ』と。自分の胸を指さしながら、「神様はここにいる」と言っていました。

私がまだ生まれていないころの話で、「自分自身が神などと、なんと不遜で高慢か、とんでもない人間だ」とその村で噂になり、祖母はお寺に無理やり連れていかれ、その村の多くの門徒の方に囲まれ責められたそうです。

門徒の方たちに異端児扱いや今は禁句になったキチガイ扱いをされ、暴力まで受けようとしたその時、たまたまお寺に、京都の有名な高僧が講話をしに来られていて、奥の部屋で祖母と住職や門徒の方とのやり取りを聞いて、部屋から出てこられたそうです。

「その方の言っていることは間違いない、この方の言っている深い味わいが分からないようでは、仏様を信仰しているとは言えない」と言ってくれたそうです。

祖母を心配して付いてきていた友人は、胸がスーとした。祖母の教えは間違いなかったと、喜び勇んで帰路についたそうです。

祖母の言っている意味は、私なりの解釈ですが「人間の心は、神にも悪魔にもなれます。仏にも強欲な鬼にもなれます。神様を信じ、神心をもって、生きている方は、心に神が宿っている」ということなのでしょうか。

生かされている人間は、神様の創造物であり、神様の器であるともいえるのかもしれません。
心は人間が自由に使えても、その心に神様を信じ、神様を宿さなければ、神は存在しないのと同じという意味かもしれません。

したがって、祖母の言っている意味が正しければ、お寺にも、神社にも、神様はいないし、
ましてや木で作られた仏像も神様ではない。そこで祈りをささげる人々の心の中に神様はいるということになります。

現在においても、祖母の言っていることは、お寺や神社関係者や信者の方たちには認められがたく、怒られそうです。

しかし、たぶん祖母は、お寺や神社が必要ないということではなく、神社仏閣は心の修行場所であり、仏像は、目に見えない神様を拝むよりも目に見えて目標になる形があったほうが祈りを捧げやすいため便宜上あってもよいと思っていたと思います。

全人類の心が神様に満たされることがあるとすれば、素晴らしい世の中になると思いますし、逆に、これだけ世界が紛争にまみれている状態を見ると、これからさらに人の心は荒んで、自己欲にまみれ、滅亡の道を進むかもしれません。

昔、「十戒」という映画の中で、海を切り開き神様に助けられたにもかかわらず、主人公のモーゼ役のチャールトン・ヘストンが山に神の教えを聞きに行っている間に、助けられた人々は神の心を失い、酒や色情に溺れ、黄金で作られた大きな像を崇拝し始めたため、帰ってきたモーゼを通し、神の怒りに触れるというシーンがありました。

黄金の像には何の意味もないということの教えで、人間の欲には限りがないということを見せつけるシーンでした。

結論として
「神様は、神様を信じる人の心に宿り、神様の意に沿った生き方をする人は身分や貧富の差なく救われる」と言うのが祖母の教えでした。

※申し訳ありませんが、この祖母のお話は、すでに亡くなった祖母一個人の考えなので、このブログに関しての、ご批判や苦情はご容赦くださいませ。また、この内容についてのお問い合わせも、当人がすでにいないので、お答えできませんのでご理解ください。