長い整体師人生の中で、日々の健康の大切さを感じています。信仰深かった祖母の教えを元に、心と体が健康になり、生き方が楽になるお話をします。
今回のテーマである「人生で起こる出来事は何が良くて何が悪いかはわからない」は、私の運命(仕事や結婚)に至る、人生の転換期があった20代まで記録です。興味のない人はこのタイトルのページは読み飛ばしてください。人生の中には、その人の運命を決定付ける出来事が必ずあります。それが良いか悪いかは後の人生で決まります。【小学校編】幼児期は私は体が弱く、病気ばかりしていたので幼稚園に行っていません。母は自分が秀才であったにもかかわらず、私の体の心配のし過ぎで、教育に関する興味は全くありませんでした。小学校入学時までに、ひらがな、数字さえ全く教えてもらっておらず、ほかの生徒についていくことが出来ませんでした。そのため、小学4年生まで成績は底辺に張り付いていました。5年になって、クラス替えがあり、たまたま、私をよく知らない生徒が多く、何を間違えたのか、選挙で私が学級委員に選ばれてしまいました。(※学級委員はホームルームの司会を任され、資料配り、朝礼時の整列、先生からの伝達事項をクラスに伝える、授業の始まりと終わりに、挨拶の指示を出します。だいたいクラスで一番成績の良い者が選ばれます)担任の先生からはひどく冷たい対応(いじめに近い)をされ、私と以前同じクラスにいた生徒たちが「あの子バカなのよ」と私が落ちこぼれであることをクラス全員に言いふらしたため、クラス全員が私に対し冷たい態度に変わりました。1学期途中、「学校に行くのがつらい、先生に学級委員をやめさせてもらえるようお母さんから話をしてほしい」と母に頼みました。母が担任の家に行ってくれたのですが、担任が母の女学校の後輩だったことがわかり、さらに担任は母が女学校トップの成績で優秀だったことを知っており、憧れの先輩だったそうです。担任は、「先輩の息子さんなら、頑張れば必ず勉強ができるようになるから、私も協力するので頑張ってもらってください」と母に告げました。次の日から、担任は別人かと思うくらい優しくなりました。そして「勉強しなさい」と今まで一切言わなかった母が、「やめるのはいつでもできる。先生も協力してくれるそうだから、私も協力するので出来ることをやろう」と、私の勉強を見てくれるようになりました。毎日学習ノートに1ページ、何の科目でもよいので勉強して提出する課題がありました。それを私は毎日10ページ母の指導の下、勉強して提出しました。勉強の効果はみるみる表れ、5年生、6年生と成績は上位に上がり、6年生でも学級委員と生徒会の副会長にも選ばれました。【小学校の人生のターニングポイント】劣等生の私が5年生でクラス委員に選ばれたことです。【中学校編】自分でいうのも変ですが、中学時代は、学級委員を1年から3年まで連続で選ばれ、剣道にも打ち込み、けっこう女子にモテて、充実していました。1年から2年は、担任は国語の先生で、どちらかと言えば私は国語が得意だったのと、担任の奥様が母と同級生だったこともあり、とてもかわいがってもらえました。しかし、受験を控える3年になってクラス替えがあり、2年間お世話になった担任は他校に転任してしまい、苦手な音楽の先生が担任になり先行き前途多難な受験生になってしまいました。母のかなり年の離れた、精神的な病を患った弟(私とは10歳離れた叔父)が近くに住んでいて、3年生になったころ、毎日のようにわが家に訪れ、兄と私を誘い遠くまで危険なドライブ付き合わされていました。3年生の秋ごろ、その叔父の病状がさらに悪化し入院することになりました。母は私の受験どころではなくなり、忙しい祖母に代わり毎日のように病院に通っていました。その状態のまま、年が明け受験に突入します。内申点の成績に関しては問題なく、試験さえ失敗しなければ合格は問題ないと高をくくっていました。担任は滑り止めに、難易度中堅クラスの私立高校も何校か受験したらどうかと勧めていたくれていたのですが、その時は公立高校しか頭になかったので、行く気のないところに無駄に受験費用を使うことはないとお断りしました。ただし、受験の雰囲気になれるのに、当時どんな学生でも100%受け入れてくれると言われていた、近くの私立男子高校は受けることにしました。そして、運命の公立高校の受験は、自分では問題なく試験が出来たと思っていたにもかかわらず、なんと不合格になってしまいました。【中学校の人生のターニングポイント】叔父の入院、受験の失敗精神を患った叔父のドライブは、100キロ近いスピードで走ったり、行ったことがない山奥の曲がりくねった道を探索したりと、楽しいというよりも恐怖でしかありませんでした。兄はストレスて体調を崩し、私もかなりストレスを受けていたのですが、兄が時々は、自分の体調が悪いにもかかわらず自分が付き合うからと私をかばってくれていました。【浪人編】に続く
プラシーボ効果というのを聞いたことがあると思います。新薬や健康食品の効果を調べるために、本物の薬を服用するグループと偽薬(効果も害もない偽物の薬)を服用するグループに分けて効果を検証する作業をします。よくテレビの薬や健康食品のコマーシャルで、この二つを比較したグラフを提示して効果を宣伝しています。確かに、偽薬に比べると本物の薬の方が効果が高い数値が見られるのですが、そこにはそんなに極端な差はなく、偽薬の方も本物の薬よりは効果が劣るものの、効果が見られます。全く効果も害もない薬にもかかわらずです。偽薬を本物と信じて服用したグループのデータは、信じて飲めば偽薬でも効果があるということを示しています。本来「プラシーボ効果」という言葉が存在すること自体、医学界において、人間は信じる行為によって、何らかの回復力を得ることが出来るということを証明しています。薬でも治療でも、信仰でも、信じるものは救われるということは否定できないようです。何でもかんでも薬や治療家を信じてしまうことが良いわけではありませんが、信じて治療すれば治療効果は上がり、なんでも疑い深く不安感を感じながら治療を受けると効くものも効かなくなる可能性があります。ただし、盲目的に信じることは危険です。簡単な悪徳業者や金儲けの治療家の見分け方は、その薬や健康食品、治療費が適正価格かどうかです。素人は内容が分からない以上、高価であれば本物で効果が高いと考える人はいますが、そういう訳ではありません。以前(20年前位)友人から、「難病に効く水の講習会があるから、一緒に行って話を聞いてくれ」と頼まれ、付いていきました。会場の雰囲気は異様な活気で、あやしい雰囲気が漂っていました。大半の会員はすでに何回か購入されていて、商品を100%信じ、怪しい宗教の洗脳された信者のようでした。水の価格は、2ℓのペットボトルが1万円、その水が飛ぶように売れているのです。主催者は、「売る」という言葉を使わず、「お分けする」という言葉を使っていました。これだけ信じて、この水を何度も購入しているということは、洗脳による「プラシーボ効果」があるのだろうと思いました。友人は購入を考えていましたが、私が「水の効果は洗脳による「プラシーボ効果」だろうし、あまりにも価格が適正ではないから、買うべきではない」と説得し購入させませんでした。冷静に考えれば、これはあやしいとわかる事なのに、病に侵され不安に襲われている人にとっては冷静に考えることが出来なくなるのでしょう。それでも「プラシーボ効果」であっても効果があるのであれば、良いのでないかという人もいるかもしれませんが、詐欺の様な商売に加担してはいけません。治療において、信じることはとても大事なことですが、闇雲に信じることとは違います。適正価格でない高額なものを売りつけようとする人間を信じてはいけません。お金がらみで、少しでもあやしいと思ったら、距離を置くことです。薬や健康食品、治療家だけでなく、怪しげな宗教や類似した団体においても同じように注意が必要です。不思議な力や効果にあこがれを持つ、その友人は、その後、私が知らない内に、あやしい気の講習会に参加して洗脳され、夫婦の溝が深まり、自死しました。彼は、同じ時期に開業した同期で、とても優しく、勉強熱心でまじめな友人だったので、彼の死が残念でなりません。
信仰している人の中には、その信仰の教義を知っているだけで人よりも人格が上と考える人がいます。信仰は自己との向き合い方を学ぶことなのですが、その教義を他人の批判に使う人がいます。特に信仰初心者に多く見られる傾向です。中には長く信仰している人の中にも、そのような方がおられますし、宗教組織の高い地位におられる 方の中にも残念ながら少なからずおられます。信仰の大きな落とし穴なのですが、信仰の教義が頭の中に入ってくると、その教義を知らない周りの人の欠点や粗がよく見えるようになり、見えることで、自分が偉くなったような錯覚が起こります。そして、分かった錯覚から、信仰の教義を元に、その人の悪いところを指摘して、攻撃することがあります。それは信仰とはかけ離れた行為です。信仰は、自分以外の人を理屈で変えるためのものではありません。信仰で他人の考えを変えようとするのは洗脳でしかありません。信仰は、自分自身を変えるためのものです。その自分が変わることで、自然とその周囲の人が変わります。それは、自分の変化に周りの人が感化されたものか、自分自身の周囲を見る目が変わったのか、それはわかりません。とにかく、自分が変わることで周りで起こることすべてが変わったように見えてきます。信仰は自分と神との繋がりを感じ、向き合うことにあります。
人は孤独を嫌います。安心を得るために、考え方が違う、気の合わない、そういう人達とも、無理をしながら付き合っている人がいます。自分と考え方が違うだけで、人を避ける必要はありませんが、ストレスをためながらお付き合いするのもお勧めできません。適度な距離感を保ちながら自分を守る必要があります。特に、神様の考えに沿った生き方は、誰もが受け入れられる考え方ではありません。自己の欲と向き合う生き方は、心無い人からは変人に見られることさえあります。人は自分の考えの範疇を超えた生き方をする人を理解できないからです。私の祖母や母を見てきてそう思います。祖母は、苦しんでいた多くの人を助けましたが、その道は楽な道ではなく、祖母の信仰の考えに賛同できない人からは誹謗中傷を受け、夫には理解してもらえず困難な時期がありました。祖母の信仰の影響を受けた母が住んでいた田舎では、近所のおばさまたちの井戸端会議が盛んなところでした。田舎の近所付き合いの良いところもあるのですが、夫の不満や家族の苦労までは良いとしても、他人のうわさや悪口まで長い時間立ち話をする主婦が多くいました。しかし母はその中にいたことがありませんでした。祖母も母も、人とのおつきあいを避けることはありませんでしたが、人に依存することなく流されず、組織やグループに参加しなくても、孤独を恐れることはありませんでした。そのような祖母や母であったので、自然と心ある人や悩みを抱えた人が寄ってきたのだと思います。何かと人に依存してしまう人は多いです。それは、親や配偶者や子であってもです。一人一人が精神的な自立が出来てこそ、お互いを助け合うことが出来るのです。精神的に自立している人とは、他人を尊重し、子供の自立を促し、伴侶に尽くし、尚且つ自分の考えを人に押し付けることはありません。精神的な自立は、人に排除することではありません。人の為に尽くしても、その見返りを期待しない。人からどのような評価を受けても、神様の考えに沿った生き方を貫く。自分自身と向き合い、神様だけを対象にしています。そのような人は、凛として、輝くような、素敵な人です。
以前から自分の欲を満たすための神頼みは意味がないと言っています。そのような頼みに神様が欲求を満たしてくれることはありません。それはどんなに熱心に拝んでも、お賽銭を入れてもです。そのような都合のよい欲を願うだけでなく、不幸な運命にさらされると人は藁をもすがる思いで神頼みをします。しかし、その不幸と思える出来事があなたにとって、良い運命なのか悪い運命かは、その時は苦しい負の感情を感じても、その 出来事は、先になってからの正の感情になるきっかけかもしれません。先でないとわからないことはあります。しかし、はっきり言えることは、その不幸と思える運命は、神様の法則に通り、自分の生き方が導いたもので、自分が引き寄せたものです。神様が気まぐれにあなたに与えたものではありません。その運命が自らが導いたものであるならば、自分で神様の法則に従い、運命の方向を変えるしかないのです。神様は願う対象ではなく、生かされていることへの感謝の祈りを捧げる対象なのです。運命は生かされているこの命をどのように使うかで決まるのです。
私自身、超能力を100%信じているわけではありませんが、世の中自分の知らない世界があることは事実なので否定はしていません。昔から、祈祷師や信仰者が病の人に手をかざして治すという行為は、普通にやっていたようです。今はアニメなどの異世界物の中で、「ヒール」という手かざしの医療行為が当たり前に行われているのを多くの若い方も見ているので、知っておられると思います。手かざしが、それを行う人の不思議な力によるものかどうかはわかりませんが、それで病が奇跡的に回復したという事例は数多くあります。私自身は、手をかざす行為は、別に不思議な力でも、特別な人にだけ備わっている能力だとは思っていません。子供がけがをした時に、親がそこに手を当てるだけで、痛みが軽くなることは誰もが経験していると思います。手かざしによる愛の力は、誰もが持っている能力なのです。ただ、整体の仕事の中で、患者さんの痛いところに何分も手をかざすという治療はしたことはありません。子や妻の家族には、今まで何度もやってきました。私がどこか痛いところがある時は妻がやってくれます。その効果は、確かにあります。温かい手を置いてもらっているだけで心も体も癒されます。理論的なことを言えば、手から温かな赤外線の様な波動が出ている。皮膚における痛覚が手が少し触れることで軽減される。等が考えられますが、なぜこれほどの効果が(場合によっては難病にも効果)あるのかはわかりません。やり方としては、施術する人は、心を穏やかに肩の力を抜いて、リラックスします。イライラしていたり、緊張すると手が冷えるからです。自分の力で治そうと意識しないようにしてください。何も考えず、ゆったりと落ち着いた呼吸をしながら手のひらに集中します。手を動かさないようにします。長く停止状態(10分以上)にするので、手を伸ばした状態ではなく、手は自分の体の近くに来るよう脇を開けないような位置で、長時間保てる姿勢をつくってから行うようにします。患部に触る時に、手で押さえてはいけません、手の重みをかけず、皮膚同士が触れるか触れないか位で、手を浮かせている感じです。手の圧で治すイメージではなく、手のひらの温かみの波動を患部に伝えるというイメージです。手当て中、自分の手の皮膚が少し汗ばんで来る、指先や手のひらが少しジンジンする感じがでたら、効果がでた反応です。受け手が不快に感じれば、すぐに中止してください。家族の中でぜひ試してみてください。
治療家にとって怖い患者さんとは。強面のヤクザの様な患者さん?クレーマーの様な患者さん?いいえ違います。(これはこれで怖いですけど)治療家にとって怖い患者さんとは、素直で、こちらの提示する来院間隔を守り、生活面での注意事項や運動など、まじめに取り組む方です。なぜこのような患者さんが怖いかと言えば、こちらが治せない言い訳が出来ないからです。このような患者さんは、 こちらのやりがいを奮い起こさせるだけでなく、こちらの責任を感じさせる患者さんです。自分の施術に自信が持てるようになってからは、これまでの経験をもとに「効果が上がる来院間隔を提示し、生活面での注意事項や運動に取り組めば、どのくらいの期間で、必ず良くなります」と患者さんに告げるようにしています。治る期日を決める事で、私は緊張感をもって仕事に取り組め、患者さんも真剣に治療に専念してもらえると思っているからです。約束ごとはお互い様なので、患者さんが約束を守ってくださっている以上、こちらも約束を違えることは出来ません。それとは逆に、来院間隔は不定期で、症状のひどく悪化した時だけ来られ、日々の自己管理も全くできていない患者さんがいます。そのような方でも真剣に治療をしますが、なかなか改善しないことについての責任感はあまり感じずにいられます。治療家にとって怖い患者は、素直にこちらの指導通り努力される患者さんです。
最近「カズマ」というユーチューバーのユーチューブ動画をみました。彼は20代半ばで、15の言語を堪能に使い分けることが出来、ほとんどの世界の人と会話が出来100万人以上の視聴者が登録されています。私は、語学が苦手で学生時代は英語、大学時代は英語以外にドイツ語も習いましたが、会話どころか紙レベルにおいてもとても苦労しました。最近は、言語を変換する、PCや携帯や翻訳機の機器が出てきたので、これからの若い人たちは、無理に語学の勉強しなくても、これらの機器があればもう大丈夫と思っていました。しかしこのユーチューバーの方と異国の人たちの会話を聞いていると、コミュニケーションにおいて、直接自分の声で話す言語がどれほど偉大な力があるかを見せつけられました。異国の人たちは彼が自国の言葉を話せることがわかると、一様に硬かった顔の表情が崩れます。そのあとは、心を開いたように会話が弾みました。カズマさんの優れているところは、言語が堪能なだけではありません。相手の言語、人格、国を認め、尊重するところです。褒められれば、否定せず、謙虚や遠慮の返答でなく、そのまま素直に喜んでお礼を言い、必ず同じ言葉で相手を褒めます。それも嫌味なく、煽てた感じもなくです。政治や文化の違い、生活習慣の違いを話題にすることはありません。その国の言語を素敵な言語とほめ、その国を知りたいから言語の勉強していると言っています。そういう気持ちがあるので、彼は短期間に多くの言語を身に着けることが出来たのでしょう。どの国の人も、自分の人格だけでなく、自分の言語や国を素敵だといわれて喜ばない人はいません。意図して彼はそれをやってるのかどうかはわかりませんが、その効果は素晴らしいものがあります。彼が、その国の言語、それを言葉にした時の表情や所作が、相手に及ぼす影響がどれほど大きいかということを見せてもらいました。同じ言語をもつ、日本人同士でさえ、うまく会話が成り立たず、誤解が生まれ、コミュニケーションが取れない時が多くあります。この動画を見て強く感じたことは、相手も自分も否定しない会話が大事だということです。そして、世界の平和だけでなく、自分の心の平和においても、人とのかかわりは、偏見をなくし、相手のことを知りたいと思い、そのための努力をすることから始まるのかもしれません。
治療家として日頃気を付けていることがあります。〇ゆっくりゆったり動く年を重ねるごとに自然と、若いころに比べて機敏に動けなくなってきていますが、まだ機敏に動ける時期から、どんなに忙しくても、ゆっくりゆったり動くことを心掛けています。自分の体の負担も少なく、落ち着いた施術が出来、患者 さんに不安を与えないためです。〇穏やかに話すはっきりとした言葉(大きな声とは違います)で分かりやすい言葉を選んで話します。病状が重たくても、不安にさせない言葉を選んで落ち着いて話します。〇優しく触れる検査や施術時、ぞんざいに触れる治療家はいないと思いますが、壊れ物に触れるように細心の注意を払いながら優しく触れるようにしています。〇目線を合わせる話をする時に、物を書きながらとか、目線を外して話をしないようにしています。睨みつけるように凝視するのではなく、患者さんの背丈に合わせ、鼻か口元位に目線を合わせて話をするようにしています。マスクをつけているので口元は見えていませんが、口元を緩めることで、目元が緩むので、口元は常に少しの笑顔を意識しています。〇姿勢に気を付ける背筋を伸ばし、出来るだけ見た目に凛として、任せてくださいというイメージを与えるように意識しています。猫背で姿勢が悪く、不安げな治療家には患者さんも見てほしくないですよね。患者さんからこの先生は、頼りになる、信用できる、と思っていただくことで少しでも安心していただければ治療効果も上がると考えています。
信仰における「悟り」についてのお話です。人としての生き方や心の持ち方について神様や仏さまの心に添った欲を捨てた信仰的な生き方が出来る人を「悟った人」と言えると思います。しかし、この「悟りの人」は極端な話、この世に存在しません。なぜか、多くの人が、この人は「神様や仏様」のような「悟りの人」と認めるような人は、自分が悟りの人であると思っていないからです。そのような「悟りの人」の多くは、人間である自分が神という訳ではなく、「神様の取次人」としての純粋な生き方をされています。自分の言葉や行動を通して、神様の意向を伝える役目ということを認識しておられます。逆説的な言い方ですが、自分は悟りの人と思っていないから悟りの人なのです。「自分が悟りを得た人間だ」と思った瞬間に、「悟りの人」ではなくなります。真に悟りを得た人は、常に謙虚で、自分はまだま だ足りない、まだ欲を捨てきれていないと思い続けている人なのです。信仰においては、まだまだ足りないと死ぬまで努力し行動できる人は、すでに悟った人であり、自分は悟った人間だ、良くできた人間だと思えば、まだまだ悟っていない、というのが信仰の奥深いところです。
一日、水を2リットル飲むと健康になれるという、水健康法があります。〇代謝の向上〇デトックス効果〇血液の流れを改善〇集中力や認知機能向上〇便秘の解消の効果があると言われています。ただ、この健康法は体の体質によって合わない方がおられます。東洋医学でいう陽性体質の人は効果があるようですが、陰性体質の人で、胃腸が弱く、水毒のなりやすい人が水分を過剰に摂りすぎると、膀胱や腎臓がくたびれて、膀胱炎がおきたり、・めまい・ダルさ・むくみ・下痢・鼻水・痰・くしゃみ・自律神経の不調なども併発します。このような人は、むやみに体が欲していないのに、水分を過剰に摂るのは体に負担がかかるのです。そのような人は、2リットルにこだわらず、・喉が渇いたら適量飲む・少量を何回かに分けて飲む・冷たい水でなく、白湯にするなどの工夫がいります。どのような健康法も、合う人、合わない人がいるので、巷ではやっている健康法をうのみにしないようにしてください。
世の中、男女平等ということが当たり前になっています。権利や義務、社会における地位、これは平等でないといけないと思います。但し、男と女の役割については区別が必要です。それは神が創造された、男女の体の構造や性質が根本的に違うからです。男女の理想像と言うか、あるべき姿と言うか、色々ご意見はあると思いますが、私個人としては、男は心身ともに逞しく(肉体的な力だけを言っていません、精神力、包容力、責任感)女は心身ともに優しさと美しさ(容姿だけを言っていません、雰囲気、立ち振る舞い、オーラ)を理想としています。とはいえ、近年、未婚が増え、結婚しても離婚率も高くシングルマザーが増える中、子育ても一人で男と女の役割をしなくてはいけない事情があります。社会の経済情勢や地球環境や食生活、昼夜の生活リズム、PCでの仕事が増え、それが原因かはわかりませんが、近年の男性の精子が50年前に比べると半減しているそうです。今の社会環境の影響を受けて、男性が女性化し、女性が男性化して中性人類が増えているのかもしれません。この問題は、単なる個人の主義思想ではなく、もっと根の深い深刻な問題なのかもしれません。神様が人間を創造された時に考えられた、本来あるべき男の天の役割と女の地の役割とは、天は雨、風、光、を降り注ぎ、地はそれを受けて草木に栄養を与え育むように、夫婦で子を育み、男は天の上から引き上げるように子を導き、女は地の下から下支えする。この役割が崩れているということは、人類そのものが神の思惑から外れた生き方になってきているのかもしれません。人類が地球の環境壊し、人類の体にも異変が起きているのなら、将来さらに自分たちの首を絞めることになるかもしれません。答えをどこに求めるのが良いのか。利害関係が絡む、怒りや争いでは、解決しないことは、今の大国間のエゴを見ると明らかです。だからと言って、世の中の不満を言い合っても、その解決を他人に求めても、何の解決にもなりません。私としては、不満だらけの人生で、貴重な時間を無駄に過ごしたくはありません。解決は外にあるのではなく、自分の中にあります。自分がどうあるべきか、どのように生きるべきか、各個人個人が考えるべき問題であり、実践していく問題だと考えています。以前のブログでも書いた、「一匹の猿」の解決方法が私としては一番の理想です。◇「一匹の猿のお話」
最近、携帯の新しい使い方を覚えました。若い方たちにとっては、当たり前の事なのかもしれませんが、機器に弱い私としては驚きです。健康法について、聞けばAIが何でも答えてくれます。栄養学、薬の事、運動法、病気、健康法など、それ以外でも、探さなくても、何でも直ぐにAIが答えてくれます。こんなに便利な機能があるとは、最近まで気づきませんでした。世間の常識的な回答は、全てここにあるようです。ただ、AIが今の段階で、万能かと言えば、まだその段階ではないようにも思います。・・・・・・・・・当院に来られた患者さんのお話です。患者さんの中には、自分の病気について、かなり詳しく調べて来られる方が結構おられます。この患者さんもその一人でした。「私は、何々の病気なのですが、治りますか」と不安そうに問われるので、私が、「その病気なら当院で対応が出来ますが、病院で診断を受けられたのですか?」と聞くと、「病院は以前、行ったことがありますが、今は行っていません。私が調べました」という返事。なるほど、これはお医者さん不信があるのかな、と心で思いつつ、この患者さんは不安感の強い神経質なタイプと見立て、それに合わせた対応が必要と判断しました。「そうですか、それでは、その病気かどうか調べてみましょう」検査をしてみると別の軽い病気であることが判明しました。こういうことは度々あります。その理由として、患者さんは、情報の中で症状の似た病気がいくつかあると、一番最悪な病気を選択して、自分の病気にしてしまう傾向にあるからです。丁寧な検査をした上で、患者さんが調べた病気とは違う診断をして、その病状を詳しく説明するのですが、それ以降でも、その患者さんは、「家でまた色々調べてみたのですが、何々の病気の可能性はないでしょうか。心配で夜も眠れませんでした」「その検査もしています、異常なく、その可能性は低いと思いますよ」「その事よりも、心配で眠れない事の方が問題で、治るものも治らなくなりますから、自分であまり心配ごとを見つけない方がいいのではないですか」とアドバイスすると、「わかっているのですが、心配でつい調べてしまいます」このような患者さんは、体の病気も問題ですが、心の問題(精神状態)も無視できないくらい重要です。ここで対応を誤ると、施術者への不信感をさらに強めてしまいます。優しく、丁寧に、根気よく説明して安心して頂くよう心を配ることが必要です。・・・・・・・・このお話から言いたいことは、過剰な情報がかえって不安感を増幅させるということです。豊富に手に入る情報も、良いことばかりではなさそうです。機器の回答は、患者さんの性格や精神状態まで考えてはくれないようです。信仰における、命の問題や信仰の生き方についても、一人一人の生き方や人生が違うように、全て同じ回答は存在しません。相手に情報を伝える時、相手の心に触れる言動は、言葉の知識だけでなく、肌の温もり、目線、息づかい、その人の放つオーラ、があってこそと思います。近未来では、人間に代わるAIが出来ると耳にしますが、それでも私としては、どんなに将来、科学が進んでも、神が創造された人間と人間が作ったAIとは、本質的に全く違うと考えています。また、そうでなくてはいけない気がします。
排泄の問題は在宅介護の大きな問題の一つです。何年も前から続く、認知の母の排泄問題についてお話しします。今年は96歳になる母は、18年前の圧迫骨折により、腰はひどく曲がり、痛みはないのですが、支えがないと歩くことが難しくなってきています。ベッドの横にポータブルトイレを置いてあるのですが、それをうまく利用出来ていません。スムーズな動作が出来ない問題だけでなく、排泄感覚(出そうになる感覚、出ている感覚)が無くなってきていることも原因のようです。もう一つ大きな問題なのが、使い捨てパンツを履かせても、5分と経たず脱いでしまい、下は何も履かず、巻きスカートだけです。なぜ脱ぐのか本人に聞いても脱いだことさえ忘れて、「脱いだ覚えがない」というだけです。ケアマネージャーに相談しても、母のようにパンツをはかせて、直ぐ脱ぐ人は、珍しいそうです。毎回うまくポータブルトイレに座ることが出来ず、立ったまま排尿するので、シートを敷いてるポータブルトイレ周辺はその都度、水浸しになります。大変なのが、便で、服、ベッドから畳まで、部屋中、ウンチまみれになることがあります。後の処理が大変で疲れている時は泣きそうになる時期もありました。その時期を乗り越えて、今は、排せつの処理をする時に思うようにしていることがあります。大変だけれど、出るものが出ないことを思えば、出てくれるのはありがたい。・・・と。実際、排泄が出来なければ、命に関わる生理作用だからです。一緒に片付けをしてくれる、妻も同じことを考えてくれて、お互いの顔を見て笑い合います。このような介護が何年も続き、母の排泄のお世話は、なかなか大変ですが、自分達に与えられた徳積みと思い、勇んでさせてもらうようにしています。ですが、精神的にも肉体的にも限界を感じながらお一人で親の在宅介護をしている方がおられると思います。自分の体や心を壊してまで頑張る必要はありません。親には申し訳ないですが、そのような時は、自分だけで対処しようとしないで下さい。私どもも、この先どのようになるかわかりませんが、今は、頑張るとか、しなければいけないとか、苦行のようなことではなく、考え方や見方を変えることで、前向きにお世話をするように心がけています。
誰も見ていない所で悪いことをする。誰も見ていない所で良いことをする。誰も見ていないので、他人に自分の人格を知られる心配はありません。しかし、徳の高い人は、人が見ていない所で、人を助けたり、良いことします。その善行は誰にもわかりませんが、その行為を嬉々としてされます。誰に褒められるわけではなく、評価されることもない。誰でも、良いことをした時には、褒められたい、評価されたい、自慢したいと思うのが普通です。それを気にすることなく、善行が出来る人の共通点は、確信的に心で思っていることがあります。それは、誰も見ていなくても「神様、仏様が見ている」「おてんとうさまが見ている」「天が見ている」、と。他人の評価を気にしていないのです。自分と神様との関係だけを気にして行動しています。母がよく私に話してくれたお話があります。臨済宗の中興の祖で、日本仏教史上、偉大なる禅師、白隠禅師にまつわる有名なお話しです。ある時 、布生地の商売をする家の娘が未婚で身ごもり、両親は娘を問い詰めました。娘は彼氏をかばおうと「白隠禅師の子だ」と娘の父親が最も尊敬する白隠禅師の名を伝えたのです。怒った両親は娘を連れ白隠禅師に会いに行き、問い詰めます。白隠は反論もせず「そうですか」と答えました。父親は赤ちゃんを白隠禅師に「お前の子だ」と、その場に置き去りにします。噂が広まり、白隠禅師は偽善者だ、嘘つきの狼だなどと非難され、名声は地に落ちました。そのような中、白隠禅師は、毎日赤子を背負い、非難されながら子育てをします。一年経ち、その白隠の姿を見てきた娘は良心が咎め、親に真実を明かします。驚いた両親は白隠禅師を訪ね詫びました。白隠禅師は「そうですか」とだけ答え、苦労して育てた子どもを娘に返しました。というお話です。言い訳一つもせず、腹も立てず、真実が分かった時もその娘や父親に、恨み言や非難もせず、自分の行いの自慢もせず、淡々と受け入れ、手放す。白隠禅師もきっと、「真実は仏様が見ておられる」「自分の修行として仏様が自分を試しておられる」と考えていたのではないかと思います。すでに有名な僧侶なのに、世間の評価を一切気にせず、淡々と自分のすべきことをされました。誰が見ていなくても、神様は必ず、分け隔てなく、私たち一人一人をしっかり見守ってくれています。そう信じるだけで、善行を勇んでする事ができ、誰も認めてくれなくても、心を落ち着かせることが出来るはずです。※私のブログで言う「神様」は、特定の神様や宗派ではありません。目に見える偶像化された神ではなく、目に見えない、宇宙エネルギー・自然界の絶対的法則を司るもの・生命の源を言っています。
自律神経と運動神経の違いを以前ブログでお話ししました。自律神経は、循環器、呼吸器、消化器、内蔵器の働き、ホルモンバランスの調整、発汗作用の調整、体温調節、など生命維持に必要な働きをしてくれています。この神経は自分の思い通りにはなりません、命に直結する神様の領域です。運動神経は、筋肉や関節の動きを制御し、 自分の思い通りに動かせる神経です。自律神経は、神様からの借り物の体を、眠っている時を含め24時間休みなく神様が守ってくれる働きです。思考や感情で自律神経は影響を受けますが、一時的にでも止まったり、休んだりすることはありません。ただその器官の中に、自分の意志でコントロールできる器官があります。それは「呼吸」です。日頃、人は意識せず呼吸をしています。眠っていても、勝手に呼吸をしています。自律神経の働きだからです。しかし、呼吸だけは、自分の意志で、一時的に止めることが出来るし、早くしたり、ゆっくりにしたり、自分で思い通りのリズムで呼吸することが出来ます。呼吸だけが、神様の働きと自分が繋がっている器官であり、自分で自律神経を整えることが出来る唯一の器官なのです。自律神経の不調で悩んでいる人は、呼吸の重要性を認識し、学ぶことがとても重要です。
体の歪みは、日常の動きによっておこる確率よりも、長時間動かさないことで起こる確率が高いのです。例えば、ケガ(骨折、脱臼、捻挫、打撲、挫傷など)で関節や筋肉を長期間固定すると、体は確実に歪みます。それ以外にも仕事上で同じ姿勢の作業が続くとその形で筋肉や関節が固まり体を歪めます。長期間の入院で寝ているだけでも首や腰に痛みが出ることがありますが、これも関節や筋肉のこわばりによっておこります。人の体は、ある関節や筋肉の動きが悪くなると、それを補うために、姿勢を崩してでも、立って動けるようにバランスをとります。それが長く続くことで体は形が固定されてしまうのです。例えば足首の捻挫で、肩凝りや頭痛が起きたり、股関節の炎症から、肩関節が動かなくなったりすることもあります。それぞれの痛みは直接関係がないように思いますが、ある箇所の故障(可動の減少)によりそこをかばい、それが別の箇所に負担をかけ、症状を引き起こすことがあるのです。長時間のデスクワークで、特に肉体労働をしていないのに、関節や筋肉が痛い、肩や背中腰がコルというときは、体の歪みを疑う必要があります。
肝臓、腎臓、心臓、胃、腸、等。どこが悪くても心配ですよね。肝臓が悪ければ肝臓の薬、心臓が悪ければ心臓の薬を病院で処方されます。それが悪いわけではありませんが、もっと視野を広げてみる必要があります。人の体は、肝臓は肝臓だけ、心臓は心臓だけが単独で働いているのではなく、すべての臓器、体全体の細胞が協力し合い、補い合いながら生命活動をしています。したがって、心臓が悪い場合、その心臓に負担をかけた原因は他にもあるのです。体全体の状態(神経伝達、ホルモンの分泌、免疫力、筋力、歪み、疲労物質、新陳代謝、血流等)が良ければ、各臓器の負担は減って、健康が保てます。どこの臓器が悪いとしても、体全体の問題と捉えるべきなのです。さらに、各臓器に影響を与えるものがあります。それは、心です。感情が臓器に与える影響をあまり医療の中では重要視されていませんが、それは確かにあるのです。東洋医学では、「癇に障る」と言いますが、腹を立てれば「肝」に障るのです。「悲しみ」は肺に影響を与えます。「悩み」は、脾臓や胃に影響を与えます。「恐れや不安」は腎臓に影響を与えます。「気持ちの高ぶりや興奮」は心臓に影響します。と、解釈され、心と体の関係は重要視されていました。実際、感情が高ぶり、血圧が上がると心臓や脳にダメージがあったり、不安や恐怖や怒りは胃に来たり、負の感情は自律神経を乱し、各臓器に影響することは、日常感じることは多いと思います。病気を治すためには、医師からもらう薬だけに頼るのではなく、体全体のコンディションを良くする。心(感情)の問題を自覚、反省して、感情のコントロールが出来るようにすることが大事なのです。
こころの浄化をする方法は、祈り(反省、感謝、誓い)と徳積みの実践です。毎日人は知らず知らずのうちに、不徳の種を撒いています。それは、どんなことにおいても小さな「欲」や「負の感情」が絡むからです。その欲や負の感情はとても小さく、人にも気づかれることなく、気にするほどの欲でないかもしれません。人間ですから、人を傷つける欲でなければ、問題ないと思いがちです。しかし、神様は、その小さな欲が毎日積み重ねることの怖さを教えてくれています。小さな埃も、積み重なると簡単に落とせない汚れやシミになります。人の小さな欲や負の感情も、積み重ねると、大きな不徳になってきます。その小さな不徳を浄化する方法は、日々の祈りしかありません。小さな埃や汚れのうちに、ふき取りをすることが大事なのです。小さな欲や負の感情とは、人の成功を妬みませんでしたか。。人の不幸を心で喜びませんでしたか。人の見ていない所で、道にゴミを捨てていませんか。人のものを欲しがりませんでしたか。人と物を分ける時、自分の方に大きい方を選びませんでしたか。嘘をつきませんでしたか。出し惜しみしませんでしたか。拾ったものを自分のものにしませんでしたか。少しのことで腹を立てていませんか。己惚れて高慢になっていませんか。自分の欲の為にへつらったり、おべんちゃらを言いませんでしたか。きつい香水やタバコの匂いで気分が悪くなる人がいる中で使っていませんか。いじめを見て見ぬふりをしてませんか。長く恨みの心を抱えていませんか。嫌味を言いませんでしたか。人が傷つく言葉を無意識に使いませんでしたか。自分の意見を押し付けていませんか。無意識の差別をしていませんか。弱者(病気の人、お年寄り、子供)に優しくしていますか。感謝の心を忘れていませんか。小さな欲や負の感情は、犯罪や極悪人と言われるようなことはなくても、他人に気づかれなくても、心の埃になります。日々の、こころの浄化が大事です。
何かの内容について説明した子供や部下や目下の人に、確認するつもりで「分かった?」「理解できた?」を使っていませんか。どうしてこれが悪いのかといえば、相手を見下した言葉だからです。いくら説明しても理解していないような顔されたり、納得していない様子を見ると、確認のためについこの言葉を言ってしまいます。言われた相手は、理解不足を指摘されたよ うな気になります。また、「このくらい理解しろ」と威圧されているようにも感じます。知識のない人が、すぐに理解できないのは当たり前のことで、相手が理解できない問題は、説明を受ける側の問題だけではなく、説明をする側の問題でもあるのです。いちいち確認しなくても、相手の顔を見るだけで理解しているか、理解していないかは、わかります。話は専門用語を使わず理解しやすい言葉で説明し、それでも理解しずらい様子なら、具体例を出しながら噛み砕いて説明してあげてください。分からない人は、「分からないところが分からない」という人が殆どです。自分が常識だと思っている内容でも、相手はそうではない時があります。自分の基準で話をしないようにしましょう。私は患者さんとお話をする時には、どのようにお話をすれば理解してもらえるか、いつも考えるようにしています。