「ぼくの名まえは」

ぼくの名まえは
ちょっとばかりややっこしいのです。

姓は近澤で、
近はトオイチカイのチカイで
澤は小川のせせらぎのそれですが
ザワと濁っているのでどぶ板の下の澱みなのかもしれません

庭の花壇に植わった紫玉ねぎが
地中でむくむくと肥えふとり
その上で、ひょろひょろとのびた
がくあじさいがやっと芽吹きはじめた今日という日を

ぼくは軒の下からぎょっとした
顔つきでながめています
こんなにも平穏でうららかな日がこんなぼくに訪れてくるなんて
どこかの神さまの手違いではあるまいかと

絶命まぎわの小魚のように
ぱくぱくと口をあけてそのとんでもない
奇蹟を
飲みくだそうとやっきになっているのですが

それがなんだかうまくいかず
ぐずぐずとしているっていうのは
これはもうニ十一世紀の構造的憂鬱というより
ぼくという人間のうすっぺらさのせいのような気もするのですが

地球はぼくの失意より重く
じゅうだいなことらしいのでぼくは
噛みかけのチューインガムみたいな青い季節を
ぺっと吐き出すしかないのです

それから、ぼくの名まえのほうは
有孝で、有効期限の有に
親不孝の孝といったらわかりやすいでしょう
こんなとるにもたらない

個人情報を暴露しているうちに
ぼくのいち日はとっぷりと暮れかかり
まだひんやりとした風にのった
焼き魚の焦げつくにおいがぼくの鼻をくすぐっているのでありました。

 

          ★

 

 じつは、詩人で俳人の安東次男の詩に、まったく同名の作品があります。《ぼくの名まえは 安東 といいます/安はウカンムリにオンナです/東はカブラの矢でつらぬかれた太陽です》という、きわめて美しく、かつ肉感的な書き出しではじまるこの作品に長いこと焦がれてきた三文詩人も、ようやく自分の名まえをまるごととりこんだ一篇の詩を書いてみようと思いたったのでした。つまり安東をパクった、ではなく、そうすることで安東の「ぼくの名まえは」のささやかなオマージュとしようと思ったしだい。うまくできたかどうかは、作品をてばなした瞬間からもう作者の意志を反映することはありえません。詩とは、表現とは、そういう酷薄かつさびしいものであるべきだと、ぼくは思っています。

 

 それから、じっさい、《ぼくの名まえは/ちょっとばかりややっこしい》らしくて、これまで、ほとんど、まともに読んでもらったことがありません。病院や役場でも、ちゃんとフリガナも添えて書いているにもかかわらず、おもいもよらない名まえで呼ばれてしまって、辟易したことも一度や二度のことではありません。それでも、一生涯、ぼくの影となり、ときにはぼくをさしおいて立つ名まえなのですから、枯れやすい一輪の花のようにたいせつにかかえてゆこうというおもいをあらたにしたぼくなのでした。

 

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