以前から気になっていたウルリヒ・プレンツドルフの「若きWのあらたな悩み」をAmazonでとりよせて、じっくりと読んでみた。このひとを食ったようなタイトルから、文豪ゲーテの名作「若きウェルテルの悩み」のパロディー作品だろうということはわかる。しかし、この「W」、一九七二年に刊行されるやいなや、その自由で清冽な感性と、共産主義からの解放をうたった文学作品として、東ドイツのみならず西ドイツでも爆発的な人気を得ていたのだった。なんだか、ただのパロディーではすまされないみたいじゃないか。え、諸君。

 物語は、いきなり主人公エドガー・ヴィボーの死亡記事からはじまる。庭小屋での不慮の感電死だった。で、エドガーの父が、息子と交流のあった人物のもとにおもむき、息子の生前の様子などをあれこれと尋ねる。その会話に、亡きエドガーが、それはそういうことじゃない、こういうつもりだったんだ、みたいに、饒舌なコメントをはさむというスタイルになっている。

 エドガーは、ミッテンベルクの職業訓練学校で優等生だったが、教師とのトラブルをきっかけに家出をし、ベルリンの友人ヴィリーの父親が所有する庭小屋に住みつくようになる。エドガーは、そこで、トイレにあった「ウェルテル」の表紙と解説のページをトイレットペーパーがわりに使ってしまう。笑えるじゃないか。でもって、たいした興味もないまま、エドガーはタイトルも作者もわからない「ウェルテル」を読み、いともたやすくそれを暗記してしまう。

 まったくうんざりってとこだったな!この本に出てくる男、その名はウェルテルというのだが、そいつは最後に自殺してしまう。あっさり匙を投げ出す。ど頭(たま)にズドンと一発穴をぶち抜くのだが、ほしい女をものにすることができないって理由でね。女をものにできないからって、ばかみたいに悩む。(中略)ひとりの女とふたりぼっちで部屋にいて、半時間かそこらだれもやってこないことがわかっておれば、諸君、ぼくならとことんまでやってみるぜ。

 とまあ、こういう感想をエドガーは述べていて、婚約者のいる女性を愛し貴族的な懊悩をするウェルテルを《こんな男などくたばってしまうのはあたりまえさ》と毒づいてさえいる。エドガーの脳天にある愛とは、どうやらすこぶる現世的で、チープなものにすぎなかったようだ。
 そんなとき、エドガーは、庭小屋に隣接する幼稚園で保母をしていたシャルリーという娘に恋をしてしまう。彼女が腰をおろすときスカートのうしろをもちあげるいくぶんエロティックなしぐさを見たいがために、エドガーは園児たちを根気よく世話をし、彼女の関心をひこうとやっきになっている。

 手っとり早くいえば、ヴィルヘルム、ぼくはあるひとと知りあった。胸の琴線に触れるひと……ひとりの天使だ……でも、ぼくにはとうてい、きみに述べつくすことができない。彼女がいかに完全な女性であるかを、またどうして完全であるかを、要するに彼女はぼくの心をすっかりとらえてしまったのだ。終わり。

 エドガーは、「ウェルテル」の一節を朗読、録音し、そのテープを友人のヴィリーに郵送する。むろんヴィリーに真意が伝わることはなかったが、それでも、これはエドガーにとって《人生最高の思いつき》だった。つまり、最初は歯牙にもかけていなかった「ウェルテル」の文体がエドガーじしんのことばとなって、ヴィリーに語り出しはじめていたのだった。ちょうど、ウェルテルが、友人ヴィルヘルムにあてた手紙で恋の悩みを打ち明けていたように……。この「ウェルテル」の引用はよほどエドガーを心地よくさせたのだろう、シャルリーとの会話のなかでも、たびたびもちいている。
 そして、そこにシャルリーの婚約者ディーターが、兵役を終え帰ってくる。エドガーは、庭小屋でマイクに向かっていう。むろん「ウェルテル」の一節をだ。

 もうたくさんだ。ヴィルヘルム、婚約者があらわれたんだ……さいわいなことにぼくは出迎えの場にいあわせなかった!いあわせようものなら、きっと胸を掻きむしられたことであろう。終わり。

 シャルリーのはからいで、エドガーとディーターは親しくなるが、ディーターとシャルリーは、エドガーのことを子ども扱いしてしまい、エドガーはますますみじめな気分になってしまう。
 ある日のこと、エドガーの庭小屋をシャルリーとともに訪れたディーターは、エドガーの描いた絵を酷評する。エドガーはれいによって「ウェルテル」の一節を引用し対抗しているのだが、このときエドガーは「ウェルテル」のことを《武器》と呼んでいるのだった。うん、これはおもしろい。「ウェルテル」のことばは、もはやたんなる《思いつき》ではなく、エドガー自身のアイデンティティーを確保するための《拳》となっていて、思わずぼくもごくりと固唾を飲んだことだった。

 その後、エドガーはシャルリーのもとから離れ、工事現場で働くようになる。エドガーのことを《大ぼら吹き》と見ていた班長のアディや、労働歌をうたい、気に入らないことには「ノー」というボヘミア出身の男ツァレンパたちとともに、壁に漆喰を塗ったり、塗装の工夫をするようになっていたのだった。しかし、杓子定規なアディと馬があうわけもなく、エドガーはここでも孤立してしまう。それは、ちょうど官職につくも、同僚たちの形式主義と粗雑さに耐えきれず孤立してしまう、かのウェルテルの窮状と共通している。
 そして、その閉塞感からのがれようとあがきにあがいたエドガーは、ひとり庭小屋にこもり、画期的なスプレーNFGの製作に没頭しはじめるのだった。

 当然のことだが、仕事は完全に秘密でなければならなかった。そしてそれが、つまりぼくのスプレーが完成したら、ぼくはなにくわぬ顔をして、貴族然と班の連中のところにまかり出てやろう。この気持ちを理解してくれるひとがいるかどうか、ぼくにはわからないがね、諸君。とにかくぼくときたら、その日にも、この荒れ果てた菜園団地全体を探しまわって、使いものになるものならなんでもあつめはじめたのさ。

 みょうに依怙地になっているような感じもするが、エドガーにはエドガーなりの信念と流儀があったようだ。というのも、ちょうどこのころ、エドガーは、偶然にユグノー博物館の前に立ち、ある感慨を深めていたのだった。
 ユグノーというのは、プロテスタントの一宗派で、かれはユグノー教徒らしい《ヴィボー》という自分の姓にコンプレックスをもっていたようだ。職業訓練学校でのトラブルもこの件に起因しているくらいだし。しかし、博物館は改築のため閉館していた。《ふつうの状態だったら、この閉館という標識がぼくを躊躇させることはなかったであろう》というエドガーは、しかし、廻れ右をし、そこから立ち去っている。

 ちょっと自己分析してから、ぼくが貴族でなかったということや、また他のユグノーたちのしたことに関心のなくなっていることを確認した。おそらくはユグノー派かモルモン派か、あるいは他のなにかであったかどうかまるで関心がなくなっていたようだ。なんらかの理由でそんなことはぜんぜん関心がなくなっていたのさ。

 エドガーは、こうつぶやいている。また、やはり同時期に、画家であったらしい父親のマンションを、暖房修理工をよそおい訪ねているが、父は画家ではなかったし、若い女をかこってさえいたのだった。これらのことが、さて、われらがエドガー青年の頭脳とたましいにどのような作用をもたらしたのかを、残念ながらぼくは知らない。
 みずからのルーツと父親への失望からくる虚脱感とそれらしくいうことはできるにはできるが、あらゆることに《関心がなくなってしまった》エドガーが、《ぼくのスプレー》製作に没頭してゆく心の軌跡は、注目にあたいするのじゃないだろうか、諸君。

 ひょっとしたらのはなしだけれど、このスプレーは、エドガーが、あの「ウェルテル」を具現化しようとしたものではなかっただろうか?つまり、エドガーにとって、《人生最高の思いつき》であり、のちに《拳》にまで血肉化した「ウェルテル」の文体と精神性は、もはや引用するものではなく、実践しひとつの形となってあらわれるべきものとして取りくむ一大プロジェクトとなってしまっていたのかもしれない。まあ、真実はどうであれ、このスプレーの製作中に、エドガーは感電死をしてしまっているのだから、「ウェルテル」とはまた違った悲劇となってしまったのだが……。

 この現代版「ウェルテル」、いや「若きWのあらたな悩み」は、じつに巧妙にしつらえられた作品だと思われる。友人ヴィルヘルムあての書簡体だった「ウェルテル」の文体をカセットに替え、やはり婚約者のいる女性との恋のかけひきをじつに忠実になぞっていることはいうまでもないことだけれど、「ウェルテル」という中世の恋物語を、ものの見事に二〇世紀に移植させていることは驚嘆にあたいする。

 「W」には、ブルー・ジーンズが、新時代のシンボルとして描かれていて、エドガー自身も《ジーンズはズボンではなくものの見方だ》といい、《ぼくはジーンズのためならすべてをあきらめることができた》いっているが、それほど若者を熱狂させるファッション、いや自由な生き方を提示してみせたところに「W」の今日性の一端が見て取れる。当時の東西ドイツの若者たちがこの作品を熱狂的に支持したことも、あるいは、共産党体制のいきづまりのア・プリ・オリだったと見る論者もいるくらいだ。

 いくぶんかったるく投げやりなエドガーの語りは、ときには読者をいらだたせたり失望させたりもするが、そこはそれ、「ライ麦」のサリンジャーの熱狂的な信奉者であるエドガーにとっては、そのノンシャランスな語り口もひとつの《思いつき》あるいは《拳》となっていたのかもしれない。
 「ライ麦」も「W」もともに、若者の突拍子もない思いつきだらけの物語で、これまたどちらも《失敗》で終わっているところまで共通しているのだが、おそらくは作者のプレンツドルフは、そのことも計算にいれて、すべてがうまく完結するとはかぎらない青年たち懊悩と挫折の味わいもほのめかしておいたのではなかろうか。そんなことを、ふと思ったことだった。

 ところで、である。「W」における《あらたな悩み》というのは、いったいなんのことだったのだろう?シャルリーとのゆきづまった恋の道なりのことか、ユグノー教徒の末裔というルーツにたいする失望によるものか?あるいはスプレーに託した恋心のことだったかもしれないし。ぼくにはよくはわからないが、その解釈は、読者ひとりひとりのなかで醸造され、爆発するものであればなんでもいいんじゃないだろうか。

「これ以上あなたに申しあげることはありません。しかしただ、ぼくたちは、彼にだらだら過ごすことはゆるしませんでした。どんな過失が彼にまぎれこんだのか、ぼくにはわかりません。医者たちのいうところによりますと、電流のせいだとのことですが」
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 という、アディのことばをもって、うん、よしとするべきだろう。
 
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