本書は、体験としての《ことば》と、その絶えざる交換によって成立する人間の《関係性》をとことん哲学し、《聴く》という行為にせつなる可能性をさぐりあてた一冊。
冒頭にこんな心理テストがあった。
仮に死の床にある人(A氏とよぼう)に、
「私はもう死ぬるのですね」と問われたときどのように答えらよいのか。
(1)「そんなこと言わないで」、
(2)「心配しなくていいですよ」、
(3)「どうしてそんな気持ちになるの?」、
(4)「こんなに痛いとそんな気持ちにもなるね」
(5)「もうだめ……そんな気持ちになるんですね」
なんだか全部の答えが正しくて、ぜんぶまちがっているような気がするのは、はたしてぼくだけだっただろうか。
ただはっきりしているのは、どう答えてもそれは《取り返しのつかない》ことばだということだ。
答える側もむろん厳しい選択を迫られているのだけれど、A氏にとってのその回答は、かれの心の情態を大きく左右するだろう。
その回答によって、かれの死は急速にはやまるのかもしれない。
なにより、心穏やかな終末をむかえることができるか、否か。一つの生と死のクオリティー(苦しみの満足度、とでもいおうか)を決定づけてしまうことにもなる。
かつて病院でケースワーカーをしていた頃のぼくの神経は、この神の領域とも思われた回答の選択の前に、ずたぼろになっていたような気がする。
いまのA氏に必要なのは、(1)から(5)のうちの、どの解答例にも該当しない。正解はない。
死を目前に控えて「私はもう死ぬるのですね」と言うA氏にたいして、もっとも求められる態度は、励ましでも慰めやましてや同情のことばではない。
ただ、かれの〈言葉を確かに受け止めましたという応答〉なのだ。
一対の人間対人間の信頼関係が、ひとを死の孤独の闇から救いえることもあるのだ。
しかし、
……不幸によって不具にされた人物は、誰かに救いを求め得る状態にはなく、求めようとする欲求すらほとんど抱きえなくなっている。だから、不幸な人間に対する共苦の情(パッション)は不可能事である。
というシモーヌ・ヴェイユの指摘はあまりに重い。
それならば、かれの声を聴こう。A氏の命の声に耳を澄まそう。
……〈聴く〉というのは、なにもしないで耳を傾けるという単純に受動的な行為なのではない。それは語る側からすれば、ことばを受けとめてもらったという、たしかな出来事である。
鷲田氏は言う。
このことばのもつ意味はおおきい。
看護の《看》という字が、苦しむひとの体を観、そっと《手》をあてているように、苦しみうめいているかれの声(ことば)を漏らさずに聴き、それに応答する。
おずおずと発せられたかれの声にふれ,撫で、愛撫する。
A氏の掌が、痛みと孤独にうめきあがいているあなたのことばに触れているのを、その時、ひとは認識をする。
ここに〈臨床哲学〉の〈臨床〉を見ることが見ることができる。
もうひとつ、興味深いがあったので、紹介しておこう。
ある看護婦が、ひとりの統合失調症患者の世話をしていて、看護婦は患者に一杯のお茶を与えた。するとその患者は、こう言ったという。
だれかがわたしのために一杯のお茶をくださったなんて、これが生まれてはじめてです。
それは、患者の気をひくためでも、サービスとしてでもなく、たんに〈なにかのため〉という意識がまったくなしに供されたことだったからだろうと、著者はいう。
言語以前の理解があったのだ。
本書には《臨床哲学試論》という副題を冠されていて、難しい内容のはずなのに、いがいとさらりと読めたのは、著者の深い洞察と博識によるものか。
やわらかな文体は、すぐれたエッセイのようでもあった。
植田正治氏による素朴でシャープな数葉の写真が配されていて、ファッショナブルでさえあるのは、なんだか愉快でさえある。
この本をぼくにすすめてくれたのは、高知で精神科医をしている詩友のH氏だった。ぼくが、障害者同士の〈ピア・カウンセリング〉の講座にかよっていたときに、すすめられたものだった。
鷲田清一
阪急コミュニケーションズ
【笑い仮面】