ついでにわたしのちいさな発見を、もひとつだけ披露しておこう。
わたしは今、紙芝居の画に色をつけないままで、デイケアの利用者に公開している。彩色するのが面倒だというわけではない(じっさいは、けっこう面倒です)。
手製紙芝居の第一作目となった『子育て幽霊』の時は、一週間がかりで、わたしが水性絵の具で彩色をした。薄い色から、しだいに濃い色へと塗り重ねてゆく作業はしんどくて、この無為にも思える作業を放擲しようと幾度思ったことだろう。
水性絵の具はケント紙にはなじみにくく、なぜかわたしのお気に入りのコットンシャツには良くなじんでくれたから、何度かクリーニングに出した後も、わたしのコットンシャツの袖は今も玉虫色のままである。
第二作となった『長靴をはいた猫』は彩色をしないままで、完成とした。
コットンシャツの悲劇を繰りかえさないように、というわけではなく、お年寄りたちに彩色をしてもらおうと考えたのだ。
十枚組の紙芝居をみんなで分けてぬり絵して、完成したものを読んで楽しもう。懐かしいチョコレートのCMではないけれど
「一粒で二度おいしい」
わけである。ゆったりとした曲線を太い線で描くように心がけた。まさに、経験のたまものである。
さて、これが意外に好評だったのに驚いたのは、このわたし。
紙芝居のぬり絵なんてみんなやってくれるかな、という不安はまったくの杞憂であった。あいた時間に少しずつ色鉛筆で塗っていった画面はたちまちのうちに色とりどりの個性にあふれて、まさに世界にひとつだけの紙芝居ができあがった。
色指定はまったくせず、みなさんの思い思いの色で塗っていってください、ってやったから、完成品はものすごいものになった。紙芝居の一枚一枚、青年や王様の着ている衣装は違うし、みんな白く塗った猫の中に一枚だけ黒猫がいたりして……。かなりシュールなしろものではある。
塗っている色づかいやタッチで個人の精神状態を判別する方法もあるらしいけれど、そんな高度な精神医学よりも、わたしの描いた線を越えて塗りつぶして、げらげらと笑い転げている人たちの笑顔をこそ、わたしは信じたい。
その孤独の色を信じたい。
え、紙芝居、これ作ったの?カメンさんも物好きねぇ。
こんなことばをいったい何度耳にしただろう。わたしの娘だといってもおかしくない、若い女の子がくすくす笑っている。でもあのひと、ひま人だから。正鵠を得た指摘に、わたしは返す言葉を探すことを諦める。
しかし、紙芝居というものは本来、ひまなひとのためにあるものなのだろう。
芸術性とか科学性とかいうことを抜きにして、ひまという贅沢を楽しむための装置なのだろう、と半ばやけくそでわたしは断言する。近年の、狂気の祭典みたいな情報のデジタル化とそれにともなう拡散化によって、わたしたちはみずからの居場所をなくしてしまいつつあるのではないだろうか。
氾濫する情報をつかみ損ねて、あっぷあっぷしている二一世紀に生きる人間を、自転車に乗ってやって来る駄菓子屋のおじさんはどう見ているだろう。
しけったせんべいを囓りながらせせら笑っているのではなかろうか。
おじさんの隣には色あせた紙芝居が寄り添うように風にはためいている。空になった缶ビールも二、三本転がって、花を添えている。
ひまという贅沢、孤独という豊饒は常にわたしの手中にある。
わたしは、孤高の紙芝居職人である。
(『紙芝居をつくる』・了)
【笑い仮面】