経験といえば、手製の紙芝居を披露していて、デイケアに来ているお年寄りたちの反応が、作品ごとに微妙に違っていることに、さいきんわたしは気がついた。
作品ごとに、といっても、しょせんは趣味の延長なのでまだ二,三篇しか公開していないのだが、これに下書きの段階のものをやはり二,三篇ほどくわえてみての結果となると、統計的にもまったくでたらめなものとはいえないだろう。
わたしの発見というのは、いわゆるお伽噺と、カタストロフィー(悲劇・惨劇)に充ちた作品とを見比べてみた場合、わがデイケアを利用しているお年寄りたちは、後者において著しい反応を示したのである。
つまり、受けが良かったのだ。考えてみれば当たり前の結果のようだが、お年寄りたちの精神の健全なあり方に、非情に新鮮な感動を、わたしは覚えたのであった。
断っておくけれど、わたしはなにも、紙芝居にかこつけて、お年寄りたちの気持ちを探索してみようなどという猟奇的な目的のために、こんなことを言っているわけではない。まったくの偶然に、お伽噺とカタストロフィーを見聞きした彼らの反応の差異に気がついたにすぎないことを、断言しておきたい。
たしか『子育て幽霊』というのと『長靴をはいた猫』を、つづけて読んだ覚えがある。
昼食後、午後のリハビリまでの時間つぶしにと、お年寄りの要望に応えて、一気に読んだのだった。
『子育て幽霊』というのは、ある若嫁さんが流行り病のために、亭主のけんめいの看病のかいもなく、臨月に死んでしまう。
それから毎夜のように、村のはずれの駄菓子屋に若い女が現れて、おつぶという米でできた菓子を求めてゆくのだが、女の差し出した小銭は柘植(つげ)の葉だった。
柘植は弔いの時に用いる植物であるから、村の人々が怪しみ、ある夜、女の後をつけてゆくと、女は先に流行り病でなくなった若嫁さんの墓のもとで消えてしまった。
で、若嫁さんの墓を堀りおこしてみると、ねんねこにくるまった女の子がみつかり、そのちいさな手には柘植の葉が握りしめられていたという、怪談ともカタストロフィーともいえない民話である。
舞台となっているのは高知市のある部落であるが、この種の噺は全国でみられるものらしい。死んだ若嫁さんが柘植の葉でお菓子を毎夜あがなってわが子を育てていたというのだから、ハッピーエンドなのかもしれないが、単なるお伽噺とは異なる、ある意味では悲愴なストーリーの展開がある。
『永靴をはいた猫』の方は、周知のとおり、十七世紀フランスの作家シャルル・ペローによるもの。
粉ひき屋の父親の形見わけに一匹の猫をもらった三男坊が、このとんちの効く猫の活躍のおかげで大金持ちになってしまうという軽妙洒脱な小噺であるが、よく考えてみると、これも猫が野ウサギを生け捕りにしたり、人食い鬼をネズミに化けさせてぺろりと食べてしまうなど、荒唐無稽な噺とはいえ、じつに残酷なエピソードに充ちた民話なのである。
おおかたの旧い民話が、にわかに血の臭いがするように……。
わたしは『猫』の話をぼんやりと聞いていたお年寄りたちが、『幽霊』の時には
「あら、可愛そう」とか
「まあ、恐ろしい」
とかしゃがれた嬌声をあげ、死んだ若嫁さんに同情をしたり、幽霊を恐ろしがったりする姿を見て、とても嬉しくなった。
程度の差こそあるものの痴呆症状の認められるデイケアの利用者においてさえ、恐ろしいものは恐ろしく、嬉しいことはすなおに嬉しいと感じ、認知しているではないか。
病んでも生命は健やかなのである。
わたしたちは同じ精神世界に生きているのである。
【笑い仮面】