読書をしたり昼寝をしたりと、日々をぐうたらと過ごすことに余念のないわたしであるが、さいきん、ある作業に忙殺されるときがある。紙芝居を作っているときである。
机の前にうずくまり、黙々と白い紙の上に鉛筆を走らせている、清浄無垢(?)なひとときである。
旧い童話や民話の本やら絵の具やら、芯の折れた鉛筆やらを狭い部屋中にとっちらかして、日がな一日悪戦苦闘しているわたしは、孤高の紙芝居職人である。
紙芝居といえば、その昔、自転車に乗ってやって来る駄菓子屋のおじさんが飴やせんべいを子供たちに売りつけるさいに読んで聞かせた、いわば客寄せの道具であったらしいが、わたしの紙芝居の観客は、わたしが勤めているデイケアを利用しているお年寄りたちなのである。
リハビリやいろいろなスケジュールの合間に、お年寄りに披露するための企画なのだからとかいい訳をして、お年寄りの介護や、書類の作成の場から抜け出して、こそこそと趣味半分の紙芝居づくりに励んでいるわたしは、もっとも怠惰な職員なのだろう。
ことの発端はたしか、わたしの同僚の思いつき、いや卓抜な発想と提案にあった。
手作りの紙芝居を披露して、お年寄りたちに喜んでもらおう。もちろん市販の紙芝居はいくらでもあるし、とうぜん完成度も高いのだが、デイケアのスタッフが描いた絵と文章で作った一篇の紙芝居の方が、お年寄りたちに喜んでもらえるのではないだろうか。
まあそんなふうな企画が持ち上がり、ほいほいとわたしも、あとさきのこともろくに考えないままその話に乗っかってしまったのではなかっただろうか。
いや、そんな珍奇な提案をしたのはもしかしたらこのわたしだったかもしれないけれど、例によって過去のことは闇の彼方である。すっかり忘れてしまったことにしておこう。
いずれにしても、わたしのこの軽率な性分は死ぬまで治ることはないだろう。
画にも作文にも多少の覚えがあると、わたしが勘違いをしていただけのことだ。過剰な自信はたちまちのうちに人間を駄目にしてしまうということの、これはいい実例である?
さて、紙芝居制作の過程はすこぶる単純なものであるけれど、画も文章もわたしがひとりで描くのだから、やはりしんどい作業である。孤独な、家内産業であるといってもいいだろう。
まあ、わたしが好きでやっていることなのだから、しかたがないか……。
まず、あちらこちらからかき集めてきた童話・民話の本を読みあさり、適当な一篇を選ぶ。
それから、その噺の中から、いくつかの印象的な画面をイメージして、それをレポート用紙の裏か何かにざっと下書きをする。
画といっても、漫画に毛の生えた程度のものではあるが、ながく懇意にしていただいている某寺のご住職から
「カメンさんは、詩よりも画の方がずっと上手いじゃないですか」
と、まことにありがたいお褒めのことばをいただいた、いわくつきの腕前ではある。後にこれをもとに、ケント紙に清書するわけである。
画面のイメージは、いわゆるネタ本を読んでいる段階であらかた頭の中にできてはいるものの、どの場面を画にするか、その選択が意外に難しい。噺の流れと、見ている画面とがちぐはぐなのではどうしようもないから、これはけっこう気を使う。
わたしは、だいたい八枚から十枚で一篇の噺が完結するように場面の構成をしている。市販の紙芝居は十枚から二十枚仕立てのものが多いようだが、わたしの作る紙芝居の観客には短いものの方が受けがいい。
だから、文章もわたしのもののようにだらだらと長いのではなく、簡潔に、それでいてリアルに描かなくてはならないことを、わたしは経験を通して知った。
【笑い仮面】
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