『詩と死をむすぶもの・詩人と医師の往復書簡』。
鳥取『野の花診療所』で終末期医療をされている医師・徳永進さんと、詩人・谷川俊太郎さんの間で交わされた2年にわたる手紙のやり取り。死の臨床とことばをめぐる、ささやかなパンセ。
「痛がりだった」患者さんの死後、「三途の川を渡るとき、痛がりませんか?」と心配をする娘の声に痛み止めの座薬を
「入れてあげておきましょうか」と応じる看護師。
「ほんとに痛がりなんだから」
「じゃあ」と、もうひとつ。
しろうと目にも《意味ないじゃーん》って思われるシーンだ。
すでに死んでしまったものに、鎮痛剤を与えてどうなるというのか?無駄なことをしているだけだ。そう思われる方もすくなくないのではないだろうか。
しかし、この看護師のささやかなケアを、徳永医師は
「この医療行為って、日本で初めて、いや世界の病院でもやっていないだろうな」
と絶賛する。
そりゃ、そうだろう。ぼくも、数年、医療の現場で働いていたことがあるけれど、死体に鎮痛剤を投与するなんて話はついぞ聞いたことがない。
しかし、このナースの対応は、そんな違和感よりも、むしろ深い安堵とあたたかみを感じるのはなぜだろうか。
ぼくも、もうおしまいというときにはこんな看護師さんに看取られて死にたいと思っちゃう。(ついでに、美人だったらいいなあ)
徳永医師は、現場からの生々しいレポートをせつせつとつづり、臨床の現場で感じたさまざまな疑問や矛盾を詩人に問いかけている。
それら徳永医師の問いかけに対して、『世間知ラズ』の詩人は
「ナンセンスは生きることの手触りを教える」
という鶴見俊介氏のことばを援用しながら
「意味以前に存在しているもの、言語以前に存在しているものが今も基本的にこの世界を形成しているとぼくは考えます」
と応え、《意味がある/ない》という二分論的思考の《無意味》さについて、ぽつりぽつりと、けれど自在に語っている。
ほかにもたくさんの死の臨床のレポートが徳永医師によってつづられている。
おもわず腹立たしくなるものや、こころがあたたかくなってなるもの等々さまざまな生と死のドラマがある。
いかにも医師の文章らしいレポートは、淡々とした中にも詩人のようなおびえをもっていて、あたたかい。
獄につながれた息子と生死の境をさまよっている父親との、限られた時間の中での、久しぶりの再会はどのようにして果たされたか。
いままで「がんばって」と励ましの声をかけて治療していた患者に、「できたら、30分以内(面会時間)に死んでくれませんか」と願う心の移り変わりを、徳永医師は《カメレオン》のようだと自責する。
「これでも医者だろうか」と。
船体医療機器のコントローラーを指先でいじりまわして、そこになんの疑問も自責もないままでいる医師たちのなかにあって、徳永医師の治療はいかにも前時代的で、まどろっこしくもある。
まどろっこしいながらも、つねに患者とその家族のいのちに対して歯噛みをしながら向かいあっている孤高の医師の姿は「意味以前に存在」する、一個の強烈な意志である。
そんな徳永医師にむかって谷川氏は、じつにさまざまなことを語る。いや、語るように、つぶやいている。
励ますでもなく、叱咤するでもなく。幼少期の記憶、機械オタク?だったこと、詩の朗読と、「死のリハーサル」のこと。
そしてちいさな詩が添えられる。
一瞬は熟れきったとき
永遠となる
言葉は熟れきったとき
沈黙する
果実は熟れきったとき
地に帰る
死を
熟れきった生としてとらえること
ふいにサルトルの『文学に何が出来るか』という問いを思い出す。
筋違いな話であることぐらいぼくにもわかってはいるが、詩とことばにはいったいなにができるのか。するべきなのか。ひとの生死をわかつとき、ことばはどのようにしてあるべきなのか。
もう一度考え直してみてもいいアポリアではないだろうか。
ぼくらの詩が、だれかの死を無駄にしないためにも。
谷川俊太郎 徳永進 『詩と死をむすぶもの・詩人と医師の往復書簡』
朝日新書
【笑い仮面】