どうも、わらびです。

最近は暑すぎて寝つきが悪く若干寝不足気味です。

それはさておき今回は鹿児島市の田上地区に残る一つの古道を探索しました。現在の県道35号線が開通する以前に、田上と台地上とを結ぶ役割を担っていた道路の一つです。

現在は並行する県道35号線に役目を譲り、田上台の造成に伴って道自体も寸断されています。

 

地図赤線実線部が今回探索した古道です。場所は田上自動車学校の近くになります。

かつては田上小の裏手から続いていたようですが、そちらは区画整理により現存せず。

 

地図北側の赤線実線部起点から探索を開始します。写真左に分岐していくのが今回の道。

かつては右の方へも続いていたようですが前述の通り既に消失。

 

分岐を曲がり古道へ。どこにでもありそうな宅地の狭路です。

余談ながらこのあたりは仏迫という地名であり、今回の古道もJRの線路にぶつかる場所までは市道寺之下線として指定されています。周辺のどこかに寺がかつて存在したことは明白なのですが、情報が手元になく具体的な事が分かりません。

おまけに墓地が点在しているためどこが寺址だったのかもハッキリせず。。。

 

古道はせり出した山の麓に沿うように進んでいきます。

かつて道の左側は田んぼだったようです。

 

宅地の中の古道。

 

その先で古道はJR鹿児島本線の線路により寸断。迂回。

 

古道より少し西にあるボックスカルバートで線路の反対側へ。

 

ボックスカルバートを抜けると今回の古道(市道 小牧迫線)と市道 大牧線との分岐地点に出ました。

正面の市道大牧線を進むと大牧トンネルを経由して広木駅、星ヶ峯団地方面へたどり着きます。

今回は左の道。

 

古道は暗渠とともに若干の坂を登っていきます。

この辺の地名が小牧迫であり、JRや市道 大牧線の通る大牧(ノ宇都)という谷にちなんだものだと思われます。

大牧という地名の由来はよく分かりません╮(´・ᴗ・` )╭ピーヤ

 

このあたりにもかつては田畑が並んでいたようです。現在は宅地。

 

道は緩やかに登っていきます。

写真左の崖の上には現道である県道35号線の坂があります。

 

古道は地形に沿う形でカーブしその先へ。

ちなみにこのあたりにはとある災害の被災とされる場所があります。

 

古道から現道方面への脇道に入ると、このように小さな墓地に出ます。

この場所は大正三年に発生した桜島大正大噴火において、市内に漂っていた不安感から山田方面に避難していた数十名を突如がけ崩れが襲った場所の推定地です。大正噴火が発生した当日の夜、現在の県道35号線の法面が数十メートルに渡って崩れ生き埋めになった人の内死者は9人から十数人(資料によって諸説あり)にのぼりました。崖崩れの原因は桜島の活動に伴う地震でした。

※大正噴火発生当時、災害への不安から市民は混迷を極めた状態となっており、市内外に避難する人々が数多くいた。

 

実際に県道のどの場所が崩れたのかは明確にされていないのですが、地形的にこの墓地のあたりであったとするのが自然です。

また大正噴火発生後以降の地図にのみこの墓地が記載されており、関連性が疑われます(単純に古い地図に記載が無いだけかもしれませんが)。

 

話が脱線しましたが古道に戻ります。道はいよいよ谷の奥地へ。

いつの間にか県道35号線は絶壁の遥か上に居ました。

 

そしてその先で古道は行き止まり。

かつてはここより先へと古道は続いており、急坂を一気に登って県道と合流していたのですが田上台の造成に伴い消失しました。

今回はここで終わり…ではなく終点から分岐している階段を登ってみます。こちらは行き止まりとなった古道と県道を連絡する目的で取り付けられた階段。

 

現在の終点よりも先は藪となっています。その先には田上台からの排水施設があり、そこからの水が古道と並行していた暗渠に繋がっているようです。

 

付替え階段に立っている木製電柱。

 

階段はかなり細いです。しかし薮になっていないあたり、一定の交通量はあるよう。

 

階段から見たかつて古道があった谷。

 

階段の脇には鹿児島県の境界杭がありました。

すぐ脇の県道35号線の物。

 

振り返るとかなり登っていました。

 

そしてこの階段からは県道35号線の桟橋の構造を間近で見る事が出来ます。

県道35号線の車線を増やす際に、地形的に崖側を削る事が困難だったためにこのような桟橋構造になりました。

 

県道35号線と小牧迫。

 

県道35号線と付替え階段の合流地点。

交通量が結構ありました。

 

かつて道が続いていた田上台から見た古道。

 

今回はここまでとします。