江戸時代に書かれた書物の中に「戦国三大愚人」が書かれてます。

 

この三大とは今川氏真、大内義隆、そして細川政元です。

 

 

大内義隆は周防を中心とした強国大内家の当主であり、大内家の全盛期を築いた大名でしたが文化振興に力を注ぐあまり、武断派であった陶晴賢に裏切られ大内家を衰退させます。
今川氏真は桶狭間の戦いで命を落とした今川義元の子で、父の仇を討てずに徳川家康に滅ぼされた今川家の当主でした。

 

そして、細川政元は・・・

 

細川政元(1466年〜1507年)は室町幕府の管領に就く三つの家、斯波家、畠山家、細川家の「三管領」のうち細川家の宗家、細川吉兆家に生まれます。

 

細川政元の父は、応仁の乱で東軍の大将となった細川勝元。

母は応仁の乱の西軍大将となった山名宗全の養女であり、政元から見ると宗全は義理の祖父となります。

 

父と祖父とが戦ったのが応仁の乱ですね。凄い生まれだね。

 

この応仁の乱を境に室町時代の日本は乱れに乱れ戦国時代に入ったと言われていますが、厳密には成長した細川政元が戦国時代の口火を切る事になります。

 

細川政元は、戦国時代の口火を切った男なんですね。

 

 

10代将軍に、足利義稙が就いた事で不満に思っていたのが日野富子です。

 

そこで細川政元と日野富子、それに義稙に反発した大名が結託します。

 

そして討伐の為に都を離れていた足利義稙を追い落とすべくクーデターを起こしました、「明応の政変」です。

 

 

明応2年(1493)4月22日夜、日野富子と細川政元は決起し、その日のうちに11代将軍足利義澄が誕生しました。

 

この「明応の政変」は、将軍が家臣(細川政元)の都合で挿げ替えられた乱でしたが、同時に室町幕府凋落の象徴、引いては戦国時代の幕開けとも考えられるようになりました。


実際、この11代将軍足利義澄から15代将軍足利義昭まで自力で、或いは室町幕府を支える大名などにより就任した将軍はおらず、大きな勢力を持つ大名に擁立されなければ将軍に就く事は出来なくなったんですね。

 

 

 

細川政元は政治を行いながら(実際は方針を決めた後の実務を家臣の合議に任せながら)、修験道の修行などに没頭しています。

 

 

1507年 細川政元は最初の養子、細川澄之により殺されました。(永世の錯乱)。細川政元、享年42。

 

 

そんな細川政元が、なぜ「戦国三大愚人」の一人とみられていたのか?

 

 

細川政元は、山岳信仰を尊び、修験道の修行に勤しみ、愛宕の法を信じました。

この為、恐らく生涯において女人を近づけず跡継ぎを儲けませんでした。

結果、養子とした細川澄之を中心とした家臣により暗殺されます。これが江戸時代の人には愚人として見られたようです。

 

 

一時期は、政治家としては、半将軍として、抜きんでた存在であったのにね。

 

 

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