960年(天徳4)3月30日、村上(むらかみ)天皇が内裏(だいり)の清涼殿で催した歌合。で、後世の歌合の手本となったものです。
宇多、醍醐、朱雀、村上、冷泉、円融、花山、一条(定子、彰子の時代)
宇多、醍醐天皇の時が、天皇親政でしたね。
村上天皇の次の冷泉天皇のときに、安奈の変がおこり、源高明が排斥され、藤原摂関家一人勝ちになるんですね。
村上天皇のときに、和歌処が設置され、「後選和歌集」が編纂されました。
和歌処の筆頭は、清少納言の父、清原元輔です。
村上天皇のときに、皇朝十二銭のラスト、乾元大宝(けんげん)が作られたんですね。
天徳の歌合は、前年8月16日に催された詩合(しあわせ)に触発されて行われたものといわれる。
題は、霞(かすみ)・鶯(うぐいす)・柳・桜・山吹・藤(ふじ)・暮春・初夏・郭公(ほととぎす)・卯(う)の花・夏草・恋の12題20番。
作者は、左が藤原朝忠(あさただ)、坂上望城(さかのうえのもちき)、橘好古(たちばなのよしふる)、大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)、少弐命婦(しょうにのみょうぶ)、壬生忠見(みぶのただみ)、源順(したごう)、本院侍従(ほんいんのじじゅう)、右は平兼盛(かねもり)、藤原元真(もとざね)、中務(なかつかさ)、藤原博古(ひろふる)の12人で、
当代の有力歌人を結集している。
判者(はんじゃ)は藤原実頼(さねより)だったが、天皇の意向を伺うこともあった。
講師(こうじ)は、左が源延光(のぶみつ)、右が源博雅(ひろまさ)。上達部(かんだちめ)、殿上人(てんじょうびと)、女房に、天皇が加わって、79名が方人(かたうど)となり、楽人10人も伴う晴儀であった。
調度や衣服も左右の色を赤と青とで統一し、王朝文化の精髄が発揮され、以後の歌合の規範となった。
判詞(はんし)も飛躍的に進化し、藤原公任(きんとう)の歌論に大きな影響を及ぼした。『
『百人一首』にも収められた兼盛と忠見の恋の歌が優劣を競い合ったことも、説話として語り伝えられている。
平兼盛(たいらのかねもり)と壬生忠見(みぶのただみ)の
有名な和歌対決があったのは天徳四年(960年)三月、
内裏の清涼殿で行われた歌合(うたあわせ)。
この歌合は《天徳内裏(てんとくだいり)歌合》とも呼ばれ、
詳細な記録が遺されていて参考にしやすかったためか、
のちのさまざまな歌合の規範となっています。
この記録が面白いのは、歌合の一部始終にとどまらず、
発案や企画段階の詳細まで書かれているところ。
そんな中で、主催者である村上天皇が
次のような気になる歌を詠んでいました。
ことのはをくらぶの山のおぼつかな 深き心の何れ優れる
言の葉(=和歌)を比べようと思うが
暗部山(くらぶやま=鞍馬山)の道が暗いように
(わたしは和歌の道に暗くて)よくわからない
歌の心の奥深さはどれが優れているのか(見極められようか)
これは宰相の更衣という女官に遣わしたもの。
天皇はまた、別の女官にこう詠みかけています。
吹く風によるべ定めぬ白浪は いづれのかたに心よせまし
風の吹きかた次第で打ち寄せる岸の変わる白波は
(=そのときの雰囲気次第で評価の一定しないわたしは)
どちら側をひいきにしたらよいのだろう
天皇は判者(はんじゃ=優劣を判定する審判)ではないのですが、
それにしても自信のなさそうな言葉です。
そしてその自信のない天皇が歌合の当日、
二人の歌人の命運を左右することに…。
推測で決まった勝敗
二十番に及ぶ歌合の最後に「恋」の題で相対した兼盛と忠見。
その歌はどちらも百人一首でおなじみです。
しのぶれど色にいでにけりわが恋は ものや思ふと人のとふまで
(四十 平兼盛)
人に知られぬようにしていたわたしの恋も顔に出てしまったか
悩みでもあるのかと人がたずねるほどに
恋すてふわが名はまだき立ちにけり 人知れずこそ思ひそめしか
(四十一 壬生忠見)
早くもわたしが恋をしているとうわさになってしまった
ひそかに思いはじめていたというのに
判者は貞信公藤原忠平(ふじわらのただひら 二十六)の息子
実頼(さねより)でしたが、どちらも優れていると考え
一旦は持(ぢ=引き分け)と判定。
しかし天皇は納得しませんでした。
記録には「小臣頻候天気 未給勅判 令密詠右方哥」とあります。
わたしが天気(=天皇のようす)を窺ってみたところ、
(優劣の)判断は下されなかったが
右方の歌をひそかに口ずさんでいたというのです。
これが決め手となり、
実頼は右方の兼盛を勝ちと定めました。
天皇は兼盛の歌を気に入っているのだろうと推測したわけです。
引き分けなら不名誉ではないのですが、
これでは延長戦のあげくに負けてしまったようなもの。
忠見は落胆のあまり食欲もなくなり、
ついには死んでしまった…というのは後世の作り話ですが、
さぞ悔しかったことでしょう。