1787年の寛政の改革は、老中・松平定信によって主導された改革ですね。

松平定信は8代将軍徳川吉宗の孫で、陸奥国白河藩主(むつのくにしらかわはんしゅ)でした。

 

寛政の改革の目的は、幕藩体制の立て直しでした。

 

具体的な内容を見ていきましょう。

 

囲い米

 

飢饉に備えて、あらかじめ米や粟などを備蓄しておく

 

「寛政異学の禁」

 

寛政の改革では、武士だけでなく民衆に対しても出版統制などで思想を統制しようとします。

朱子学以外の学問を禁じたんですよね。

 

風俗に悪影響を与えるものや、噂話を盛り込んだ本を貸し出すことを禁止した出版統制令が出されて多くの作家が処罰されました。

洒落本の山東京伝や、黄表紙の恋川春町が処分され、また、男女混浴も禁止されたんですね。松平定信、息苦し~~~。

 

棄捐令(きえんれい)

 

借金に困っていた、直参の旗本、御家人を救うため、借金を帳消しにした。

 

石川島人足寄場

 

犯罪が増えていたため、犯罪を犯しそうな人に職業指導した。

 

「海国兵談」の林子平を弾圧。

 

しかし弾圧したその年に、林子平の言ったとおりに、ロシアのラクスマンが根室に大黒屋光太夫と一緒に来て、そして、レザノフが長崎にやってきた。

 

尊号一件

 

尊号一件(そんごういっけん)は、日本江戸時代後期に朝廷江戸幕府との間に発生した、閑院宮典仁親王への尊号贈与に関する紛議事件です。

 

 

江戸時代後期、後桃園天皇は子どものないまま崩御しました。そのため、世襲親王家の閑院宮家から兼仁親王が後桃園天皇の養子となり、第119代「光格天皇」として即位するですね。

 

朝廷は天皇の権威を強化しようと、昔の公事や神事を行ったり、天皇の住まいであり、儀式や公務を行う京都御所(内裏)の紫宸殿や清涼殿を平安時代のものと同じになるよう造営していました。そうしたなかで光格天皇は実父・閑院宮典仁親王(すけひとしんのう)に「太上天皇(上皇)」の尊号を宣下したいと幕府に伝えたのです。

 

ところで、閑院宮典仁親王の「親王」は、天皇の皇子や、親王宣下を受けた皇族に贈られる称号です。そして、このころの「親王」は「禁中並武家諸法度」によって摂関家よりも序列が下にありました。

 

光格天皇は自分が天皇に即位したことで実父よりも位が高くなってしまったことや、天皇の実父が臣下よりも下ということに不満を抱いていたんですね。

 

しかし、松平定信は、これを拒否したんですね。

 

「尊号一件」は幕府と朝廷の関係を崩しただけでなく、江戸幕府内で将軍と老中を対立させるきっかけとなった事件でした。