京都に行って、3時間程度余裕ががあれば、市バスの三十三間堂前で降りて、長谷川等伯らの襖絵のある、智積院、妙法寺、三十三間堂、京都国立博物館そして、この養源院を周るのがいいかもですね。

 

さて、養源院は、文禄3年(1594年)に、豊臣秀吉の命により自害を命じられた、北近江の戦国武将・浅井長政の21回忌の供養のため、豊臣秀吉の側室・淀殿が秀吉に願って創建された供養寺です。

 

浅井氏菩提寺です。

開山は浅井氏の庶流にあたる比叡山の僧成伯法印(伝・長政弟)です。

 

時代に翻弄された浅井三姉妹(淀・お初・お江)。

お江は秀吉の政略結婚に利用され、徳川家へと嫁ぎました。その後1615年、大阪の陣で淀殿(豊臣方)VSお江(徳川方)と敵対同士になった両姉妹。ここで淀殿は戦に負け、豊臣秀頼と共に自害したのです。淀殿享年47歳。

姉の淀を失ったお江は翌年の1616年、養源院にて戦没者の供養を営みました。養源院はその後1619年に落雷による火事で焼失し、1621年にお江が再興。その際、伏見城の遺構の一部を移築してきたことが、養源院の目玉ともなり次の項に出てくる「血天井」なのですね。

 

 

お江はいくつかの変遷をへて、豊臣秀頼に嫁ぐ千姫をはじめ二男五女をもうけます。その中、五女として生まれた和子が、次期天皇を生むことになり、お江は大きな影響力を持つことに。その後1626年、江戸城西の丸にて死去。お江享年54歳でした。

浅井三姉妹の中では最長命となるお初は、夫の京極高次を亡くして以降出家。その後姉と妹が敵同士となった際、両家の和解に奔走します。常高院と名乗り、晩年は京極家の江戸屋敷で静かに息を引き取りました。享年64歳。

 

 

 

さて、血天井。これは、関ヶ原の戦いの前哨戦ともいわれる伏見城の戦い鳥居元忠以下2000人余りが城を死守し、最後に自刃した廊下の板の間を供養のために天井としたもので、武将達の遺体は残暑の残る8月から9月中旬まで放置されていたと言われ、そのため今も生々しい血の痕があちこちに残っています。

 

1600年、石田三成と激しく争っていた徳川家康は、会津の上杉討伐に向かうため、伏見城を鳥居元忠に守らせました。留守の伏見城を守らせるというのは、石田三成をおびき寄せる作戦でもあったのです。大阪にいる三成が、家康の伏見城留守を聞けば、まず襲ってくるに違いありません。最小のリスクで三成側の足を止め、なおかつ 敵兵を少しでも減らしたい。この捨て駒役として、元忠は抜擢されたのです。

この鳥居元忠という人。家康が幼少期、今川家へ人質に出されていた頃からの側近で、言わば幼なじみのようなものでした。元忠は最後まで家康のために忠義を果たそうとし、快くこの申しつけを承諾。この日は、家康と朝まで想い出を語り合ったと言います。

「上杉家は強敵なれば、一兵でも多く召し具してゆきなされ。伏見城はわれひとりで事足りまする」と言って、元忠はたった1800名の兵で伏見城を死守。総勢約4万の兵が城を取り囲み、元忠も8月1日遂に力尽きます。380名以上が討死に、または自刃。しかも遺骸は関ヶ原の戦いが終わる約2ヶ月もの間、伏見城に放置されていました。そのおびただしい血痕や脂によって顔や鎧の跡が染み付き、いくら拭いても落ちなかったといいます。足で踏むなど忍びないと思ったのでしょう。家康は彼らの魂を成仏させるために、あえて養源院の天井にこの板を使用したんですね。

 

ここにあるのが、俵屋宗達の、襖絵と杉戸絵ですね。
これは伏見城で自刃した将兵の霊を供養するために描かれたものと伝えられており、杉戸の象や唐獅子や麒麟などを図案化した構図は、表現の奇抜さでも知られています。
 
 
 
 

 

 

当時は、ほとんどの襖絵を狩野派が手掛けていた時代。当時無名だった扇絵職人・俵谷宗達はこの養源院にて描いた杉戸絵が、名を轟かせるきっかけになりました!俵屋宗達の原点となったのが、養源院の杉戸絵なのです。

 

杉戸絵の題材になっている「唐獅子」と「白象」は普賢菩薩、文殊菩薩の乗り物とされていて、宗達はそれを描くことによって、非業の死を遂げた徳川の家臣たちの霊を慰めたと言われています。

 

他にも養源院には、

左甚五郎の作った「鴬張り廊下」

作庭師・小堀遠州による庭

など見どころ満載。

 

行きたいぞ!

 

 

ペタしてね