「坂本繁二郎展」 練馬区美術館

 

に行ってきました。

 

坂本繁二郎は、国立近代美術館の、「水より上る馬」(1937)ぐらいしか知らなかったので、生涯を通じての作品が見れて、とてもよかったです。

 

 

福岡県久留米市に生まれた坂本繁二郎(1882-1969)。同級生には青木繁(1882-1911)がいて、互いに切磋琢磨する青年期を過ごしているんですね。

 

坂本にとって青木は無二の親友であるとともに、
終生その存在を意識せざるをえないライバルであったようですね。

 

神童と言われたころの若いころの作品が凄すぎる!

 


 

これは墨絵ですが、15歳のころに描いたものですよ!見事です。

まさに神童ですね。日本画の技術も凄かったことがわかりますね。

 

他にも若いころの作品が出てましたが、いやー、見事にうまいです。

 

 

20歳で青木を追うように上京。小山正太郎の主催する不同舎に学ぶんですね。

 

展覧会出品作が数々の賞を受けるなど順風満帆な画業をスタートさせました。

 

 

坂本繁二郎の画業の転機はいくつかあったと思いますが、1911年に青木繁が亡くなったことは凄く大きかったと思います。

 

その青木が亡くなるちょっと前に描かれた、

 

20 「張り物」(1910)という作品が凄い。

 

 

これ、凄い青木繁に似ていますよね。

これは青木繁への思いが色濃くあった作品だって思いました。

 

夏目漱石は同郷同年生まれのライバル、青木繁と坂本繁二郎を比べて、「青木は天才、坂本は鈍才。青木は華やか、坂本は地味。青木は馬で、坂本は牛。青木は天に住み、坂本は地に住む。青木は浮き、坂本は沈む」と評したといいます。

 

こんなに絵のうまい坂本を鈍才と呼んでしまう夏目漱石も凄いですね。でも鈍才という評価は僕は的を得ていると思います。

 

青木繁も、坂本繁二郎も、若いころから絵がうまかった。若いころにテクニック的には完成されていたのだと思います。

で、坂本は、そのうまさに満足してそこで終わることはなかった。若くして亡くなった青木繁は、うまさを通り越して、うまさよりも、もっと神の領域に近い魂の世界観を若いうちから表現しようとした。

坂本は、そこに大きな刺激を受けたと思います。

ただ、坂本が、青木のような神の領域を描けるようになるには、こつこつと長い修行のような時間が必要だったのだと思います。

 

そこのところをしっかり見抜いた夏目漱石は、坂本を鈍才って評したのでしょうね。

 

僕は、早死にするのも、長生きするのも、それはどっちも必然なんだと思います。

青木は早死にすべきして、早死にした。実際青木がもし長生きしていても、僕はそれ以上のものはなかったように思えます。

逆に坂本は長生きすべきして、長生きした。

今回の展覧会を見て、僕はそれを凄く感じました。

 

青木繁の絶筆、「朝日」(1910)も出品されていました。

 

凄い!!

 

 

 

さてさて、

 

出世作となったのは、

22 「うすれ日」 (1912)

 

 

第六回文展で、夏目漱石が注目し、出世作となった作品ですね。

 

いやー見事でした。この絵を見て、坂本を鈍才って呼んでしまうんだから、凄いよなー漱石も。

 

もうこの作品のころから、周りに惑わされず、牛のようにしっかり自分を見つめ続ける坂本の姿勢が表れていると思いました。

 

そして、1921年、39歳で渡仏します。

 

フランスで、凄く期待していたルーヴル美術館に行くのですが、

期待が大きすぎたのか、行ってみて、それほどの感銘を受けずにがっかりしてしまうんですよね。

 

もうそのころには自分のスタイルをしっかり持っていて、ルーヴルに学ぶものはあまりないと感じると同時に、自分の画業の在り方に自信を深めたのでしょうね。留学は3年で終わり、ふるさと久留米に戻ってきました。

 

そしてそして、

51 「水より上る馬」 (1937)

 

 

僕は、この作品が、坂本繁二郎の頂点だって思います。

 

ここで、ある意味、画家坂本繁二郎が完成されたって感じがします。

 

展覧会は、ここから、

第四章 成熟ー静物画の時代(1945~1963)

に入ります。

 

 

久留米に帰って以降、画壇の煩わしさを避け、郷里にほど近い八女にアトリエを構え、文人のごとき作画三昧の生活を送ったといいますが、

 

僕には、なんか、坂本が出家したように感じました。

 

このころに描かれた静物画は、まさに「求道者」の姿そのもの。

誰かに見せるため、誰かを喜ばすために描くのではなく、まさに、求道のために描いている感じ。

 

坂本は、「描きたいものは目の前にいくらでもある」とおっしゃっていたそうですが、

何を描くかが問題ではなく、目の前のものはなんでもいいから描く、目的は求道だから、って感じだと思いました。

 

このころの静物画は、凄いんだけど、求道者の修行のようで、見てていいなって感じのものではなかったように思えました。

 

 

で、最晩年

第五章 「はなやぎ」- 月へ(1964~1969)

 

この月を描くころから、修行の末についに、さとった!って感じの作品がズラリ並んでいました。

 

なんか、僕には、ここでようやく青木繁の世界に追いついたって感じを受けました。

 

 

 

 

このころには、視力も相当落ちた中、魂で魂の世界を描いたように思えます。

なんか、ルドンっぽいものも感じます。

 

若い頃から、絵がうまかった坂本は、絵にうまさを求めなかった。それはすでに身に着けていたから。

では、絵を描くことで何を一体求めていたのか?

 

その答えが、この月のシリーズにあるように感じました。

 

そして絶筆となった作品。

 

141 「幽光」 (1969)

 

 

もう言葉はいらないですね。

 

鈍才、坂本繁二郎の旅は終わった。

でも、この令和の世になっても、坂本繁二郎が求め続けたものは、しっかり僕らの心に響いてきますね。

 

素晴らしかったです。

 

 

 

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