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岸田劉生 「道路と土手と塀(切通之写生)」(1915)


が大好きです。


なんだろう、凄い魂揺さぶられるような、凄く共感を感じる作品です。



さて、僕は、全くアートとは程遠い人生を過ごし、50歳を超えるあたりから、
アートに目覚めむさぼるようにアートを追いかけていますが、
どうにもこうにも、貪欲で、余裕のなさを感じています。



@育った環境で自然に身についた芸術鑑賞眼の持ち主には、「余裕」があるのである。(内田樹)
 

そう、俺には余裕ないんです。


 

@「家庭」で習得した文化資産と、「学校」で習得した文化資産の差はこの「ゆとり」、あるいは、「屈託のなさ」のうちにある。その「ゆとり」は何よりもまず「無防備」という形を取る。芸術作品を前にして「ぽわん」としていられること、この余裕が、「育ちの良さ」の刻印なのである。(内田樹)
 

おれは、がつがつしてしまうよなー。とてもアートを前にして「ぽわん」とし
ていられないんですよね。




@家庭で文化資産を身体化させてきた、「血統による文化貴族」は、平然と「知らない」ということができる。なぜなら、その人にとって、芸術作品についての鑑賞眼は、一度として努力して「獲得すべきもの」として意識されたことがないからだ。(内田樹)



僕は、「血統による文化貴族」ではないので、作品の背景とか、意味とか、作
家の性格とか、凄くきになるし、知りたいって貪欲になってしまう。


そんな僕のアート鑑賞を、「血統による文化貴族」は、笑うでしょうけど、仕
方ないことですね。


さて、そんな僕ですが、この作品の前に立つと、魂揺さぶられると同時に、な
んというか、自分の生き方、経てきたことが、「間違ってなかったよ」ってな
んか凄く安心するような、ほっとするような感じも受けるんです。


実に写実的に描かれた土。まるで命があるかのように生き生きしている土。


これは代々木のあたりの風景を描いたそうですが、ここで描かれている土は、
赤土。そう、関東ローム層なんですね。


えーと、実は、僕の住む家は、僕が生まれたときから、精肉店を営んでました
が、子供のころは、店の前は、舗装されていない土の道路で、まさにこの作品
のような感じ。


僕もなんとなく、この関東ローム層の赤土の道が記憶にあり、なにか、この土
に、僕の商売人としての原点を感じるんです。


商店街に生まれ育った僕には、この赤土に、個人商店の生きざまを感じるんで
す。


50数年前に、大泉にも個人商店が並ぶ商店街ができ、街の中で重要な役割を
果たしてきましたが、わずか50年ほどの間に、どんどん大型店、チェーン店
などができて、個人商店はどんどんなくなっていきました。


この作品の電柱の影。僕はこの電柱に、個人商店を脅かす大型店の姿を感じる
んです。


でも・・・その電柱の影は、個人商店の思いの詰まった赤土の上で無残にも歪
んでいる・・・。


僕はここに感動を覚えるんですよ。


確かに個人商店は、まさに「銀河鉄道999」の鉄郎のように、失敗はするし、
間違いは犯すし、弱い面もある。
機械人間のように、効率的でもなければ、スタイリッシュでもなければ、要領
もよくない。

でも、個人商店には、思いが詰まっている。

僕はそこにダンディズムを感じるし、負けてたまるかって思う。


この赤土に、その個人商店の思いを僕は感じます。

歪んでるし、でこぼこだけど、そこには強い思いがある。

個人商店って、でこぼこなんだよ!でもだからこそ、僕は存在価値があるって
思う。


この青空に向かって、遠近法を無視するかのように力強く存在しているこの赤
土に、個人商店の意地を見るし、これからも大型店・チェーン店に負けない、
他のどんな店にもとってかわることのできない、唯一無二の個人商店として、
意地を貫いていこうと気持ちが高ぶってくる。


「血統による文化貴族」でない僕が、血統による商売人として、凄く共感でき、
魂が揺さぶられる作品なんです。


この作品を重要文化財に選んでくれた方に、「ありがとう!」っていいたいで
す。