経済の原則
書いた記事の半分くらいは消しているわけだが、消したことを表すためにΦを使ってみたら下記事のようなことになった。まあ気に入っているが。
【保険】
命は買えなくても、保険をかけることはできる。
日本人にはやや理解されないかもしれないが、他人の10倍の値段する自動車に乗って事故で自分だけが生き延びるのは「フェア」なことだ。そして100や120程度で追突されて死ぬような車に乗っているというのは、要するにそういうことなのだ。なんにせよ世の「理解し難い急ぎ方をする面々」は私に燃料の無駄をさせないで欲しいものだと日々思う。
悲鳴を上げるように車列から飛び出してきた車に抜かさせないどころか戻れなくしてやった時など胸がすくような気持ちだった。
激怒した運転手が後方に消え去りながらクラクションを何度も何度も鳴らしている様など感動すら覚える。
諸君、私は運転が大好きだ。
【保険】
命は買えなくても、保険をかけることはできる。
日本人にはやや理解されないかもしれないが、他人の10倍の値段する自動車に乗って事故で自分だけが生き延びるのは「フェア」なことだ。そして100や120程度で追突されて死ぬような車に乗っているというのは、要するにそういうことなのだ。なんにせよ世の「理解し難い急ぎ方をする面々」は私に燃料の無駄をさせないで欲しいものだと日々思う。
悲鳴を上げるように車列から飛び出してきた車に抜かさせないどころか戻れなくしてやった時など胸がすくような気持ちだった。
激怒した運転手が後方に消え去りながらクラクションを何度も何度も鳴らしている様など感動すら覚える。
諸君、私は運転が大好きだ。
フッサールの夢
私がフッサールとなって見果てたのか、見果てたフッサールの夢が私なのか。
今日やっと業界で著名な原典研究所を訪ねることが出来た。西新井という地理的な隔たりが困難ではあったが、途中で花粉症が襲って来た以外は至極居心地の良い場所だった。その居心地の良さとは、言わば喧騒の中にありながら深閑というような良さである。
私の頭の中には四六時中他人が出て来て、その他人の言葉で私を追及してくる。それはその人が実際に言った言葉であったり、あるいはまったくの創作であったりするが、その追及してくる内容は結局のところ私自身の命題についてである。つまりは自身との対話に都合のよいキャラクター設定として他者を利用しているに過ぎない。
問題は「彼ら」は決してこちらの都合では出て来てくれないことだ。だからしょっちゅう出て来て「私の思いもよらない」言葉で私を追及してくれる「キャラクター」を私はとても尊重している。しばしば私の言う「彼ら」とは、他でもない彼らのことなのである。もちろん実在するモデルとは本質的に異なるのだが、そのインスピレーションを与えてくれる希有な存在たちにはやはり敬意を払う次第である。要するにキャラと声優の区別がつかないようなものだ。
だから私が「民青」と対話している時間は、実際に民青と対話している時間とは比べ物にならないほど多い。しかし「民青」の言うことが実際の民青の言うことを包含してしまったとき、私にとって実在の民青は何の価値もなくなる。つまり民青に飽きるのである。そして民青と話したければ、時折出てくる「彼ら」と話せば良いだけだ。
ところが昨今また私が実際の民青に興味を回復しつつある理由は、実際の民青が「民青」から外れたためである。それが有益かどうかはともかく、彼らは「想像力を超えた」存在として再び眼前に現れたのだ。私が民青に今注いでいる視線は、私が知的障害者に注ぐ熱い視線と同じなのである。彼らは予定調和の中ですらワクワクさせてくれる数少ない存在だ。
そんな中でも原典研究所の面々は実に素晴らしい存在であると直ちに気付かされた。私は講義の合間に「彼ら」と談笑し、「彼ら」の慧眼に深く感じ入ったのだ。初対面でここまでとは、私も思いもつかないことであった。
そしてそこの首班である斉藤先生の著作を会長殿から頂いて読み、電車内でありながら目頭が熱くなった。
私には確かに、私の未完のhentai理論体系を読んだフッサールが"Der Hentai ist ausgeträumt."と嘆く姿が見えたのだ。
フッサールが引導を渡してくれて、これでやっと私は新鮮な気持ちで再び対象に向うことが出来よう。今や私は超越論的hentai認識から降り、ただhentaiの前に立つナイーブな一人である。
今日やっと業界で著名な原典研究所を訪ねることが出来た。西新井という地理的な隔たりが困難ではあったが、途中で花粉症が襲って来た以外は至極居心地の良い場所だった。その居心地の良さとは、言わば喧騒の中にありながら深閑というような良さである。
私の頭の中には四六時中他人が出て来て、その他人の言葉で私を追及してくる。それはその人が実際に言った言葉であったり、あるいはまったくの創作であったりするが、その追及してくる内容は結局のところ私自身の命題についてである。つまりは自身との対話に都合のよいキャラクター設定として他者を利用しているに過ぎない。
問題は「彼ら」は決してこちらの都合では出て来てくれないことだ。だからしょっちゅう出て来て「私の思いもよらない」言葉で私を追及してくれる「キャラクター」を私はとても尊重している。しばしば私の言う「彼ら」とは、他でもない彼らのことなのである。もちろん実在するモデルとは本質的に異なるのだが、そのインスピレーションを与えてくれる希有な存在たちにはやはり敬意を払う次第である。要するにキャラと声優の区別がつかないようなものだ。
だから私が「民青」と対話している時間は、実際に民青と対話している時間とは比べ物にならないほど多い。しかし「民青」の言うことが実際の民青の言うことを包含してしまったとき、私にとって実在の民青は何の価値もなくなる。つまり民青に飽きるのである。そして民青と話したければ、時折出てくる「彼ら」と話せば良いだけだ。
ところが昨今また私が実際の民青に興味を回復しつつある理由は、実際の民青が「民青」から外れたためである。それが有益かどうかはともかく、彼らは「想像力を超えた」存在として再び眼前に現れたのだ。私が民青に今注いでいる視線は、私が知的障害者に注ぐ熱い視線と同じなのである。彼らは予定調和の中ですらワクワクさせてくれる数少ない存在だ。
そんな中でも原典研究所の面々は実に素晴らしい存在であると直ちに気付かされた。私は講義の合間に「彼ら」と談笑し、「彼ら」の慧眼に深く感じ入ったのだ。初対面でここまでとは、私も思いもつかないことであった。
そしてそこの首班である斉藤先生の著作を会長殿から頂いて読み、電車内でありながら目頭が熱くなった。
私には確かに、私の未完のhentai理論体系を読んだフッサールが"Der Hentai ist ausgeträumt."と嘆く姿が見えたのだ。
フッサールが引導を渡してくれて、これでやっと私は新鮮な気持ちで再び対象に向うことが出来よう。今や私は超越論的hentai認識から降り、ただhentaiの前に立つナイーブな一人である。