ありがとう
青春の証だと思います
—労働収容所
http://plaza.rakuten.co.jp/chiaki1000/diary/200608110000/
私はお蔭さまでここまでやって来られました。本当に感謝しています。皮肉などではありません。
ここ数年で私に最も大きな影響力を与えた身近な人たちは、父と祖母とそして多くの方々なんだと思います。これは驚くべきことです。私は身上として人間関係を疎んでいます。それにも関わらず、こんなにも多くの方々に多くのことを教えて頂きました。そして何よりも驚くべきは、多くの方々の言動ではなく、多くの方々そのものに学ぶばかりだったことです。
私は昔から父に「ヴォリンガー審美学」の話を聞かされておりました。それは「美しいと思っているものを醜いと思い」「良いと思っていることを悪いと思う」などすることによって価値観を変化させて始めて「アフリカの土人の美術」が理解出来る、そんな内容です。「他山の石以て玉を攻くべし」とは誰でも口にしますが、本当にそれを実行するのは難しいことです。
例えば「常識を疑え」と言います。その通りです。しかし、多くの場合に疑っている常識とは「他人の常識」であり「気に入らない常識」に過ぎません。本当に疑うべきは「自らの常識」です。それでは改めて疑うべき常識とは何かと考えると、それは多くの方々の常識を疑うことでも、多くの方々の常識を論破したと主張してみせることでもありません。ここですべき事は「多くの方々の常識に疑問を挟む自分の常識を問い直す」ということです。そしてこのような訓練を積む場所は多くないと思います。なお大学でこの訓練を積むことも出来ると思いますので、普通に大学で頑張る方が負担は低いと思います。
主張を構成するのは本当に大変です。
論拠は、論の運びは、具体的事例は、原理は、実験・再実験可能か、モデルは、統計データは、手法は。結局何が言いたいのか、そうだとすると何なのか、本当にそれで妥当するのか。
根拠にならない、飛躍している、事例が合わない、原理が見えない、実験不能だ、モデルがない、統計データがない、手法が確立されていない。言いたい事がない、応用が見えない、妥当なのかも分からない。何より現実が複雑すぎる。
そんなことばかりです。
人間はどのようなことでも、繰り返しますが「どのようなことでも」、信じることが出来ると信じるに至りました。何故それを信じるに至るのかまでは分かりません。そして信じていること、それは往々にして自らの根底である、を疑うことほどの苦痛はありません。それ以前に何を疑えば良いのかすら普通は分かりません。
この時に多くの方々は有効であると信じます。同様に多くの方々にとって、私も多くの方々です。小グループに分かれてお互いを罵り合うのは致し方ありませんが、どうせならもっと冷たく自分を見つめたいものです。何より私はこの時にこそ、宗教の出番だと思っています。宗教は各小グループに対して付与されるものではないと考えます。宗教は各小グループの埒外にあると信じます。学問でなく宗教でなければ乗り越えられないと信じています。と言うよりは、学問的であるためには宗教的であらねばならぬと信じています。
私はこれにうっかり戦史研を巻き込みましたが、反省しています。
普段から多くの戦史研員にこれをやらないかと不真面目に言っていますが(◯◯に会いに行こうぜ、という言動のかなりの部分がこれです。今後注意して下さい)、うっかりネット上で残る形でやってしまった。申し訳ないとは思いますが、私はいつでも「宗教と学問の旅」の道連れを募集しています。
人生一般に最高の価値を見出せなくなったときには是非声をかけて下さい。その時はおそらく「人間は宇宙最高の存在だと思うか」という質問を婉曲にしますので、うまくすり抜けて下さい。それでは待ってます。
—労働収容所
http://plaza.rakuten.co.jp/chiaki1000/diary/200608110000/
私はお蔭さまでここまでやって来られました。本当に感謝しています。皮肉などではありません。
ここ数年で私に最も大きな影響力を与えた身近な人たちは、父と祖母とそして多くの方々なんだと思います。これは驚くべきことです。私は身上として人間関係を疎んでいます。それにも関わらず、こんなにも多くの方々に多くのことを教えて頂きました。そして何よりも驚くべきは、多くの方々の言動ではなく、多くの方々そのものに学ぶばかりだったことです。
私は昔から父に「ヴォリンガー審美学」の話を聞かされておりました。それは「美しいと思っているものを醜いと思い」「良いと思っていることを悪いと思う」などすることによって価値観を変化させて始めて「アフリカの土人の美術」が理解出来る、そんな内容です。「他山の石以て玉を攻くべし」とは誰でも口にしますが、本当にそれを実行するのは難しいことです。
例えば「常識を疑え」と言います。その通りです。しかし、多くの場合に疑っている常識とは「他人の常識」であり「気に入らない常識」に過ぎません。本当に疑うべきは「自らの常識」です。それでは改めて疑うべき常識とは何かと考えると、それは多くの方々の常識を疑うことでも、多くの方々の常識を論破したと主張してみせることでもありません。ここですべき事は「多くの方々の常識に疑問を挟む自分の常識を問い直す」ということです。そしてこのような訓練を積む場所は多くないと思います。なお大学でこの訓練を積むことも出来ると思いますので、普通に大学で頑張る方が負担は低いと思います。
主張を構成するのは本当に大変です。
論拠は、論の運びは、具体的事例は、原理は、実験・再実験可能か、モデルは、統計データは、手法は。結局何が言いたいのか、そうだとすると何なのか、本当にそれで妥当するのか。
根拠にならない、飛躍している、事例が合わない、原理が見えない、実験不能だ、モデルがない、統計データがない、手法が確立されていない。言いたい事がない、応用が見えない、妥当なのかも分からない。何より現実が複雑すぎる。
そんなことばかりです。
人間はどのようなことでも、繰り返しますが「どのようなことでも」、信じることが出来ると信じるに至りました。何故それを信じるに至るのかまでは分かりません。そして信じていること、それは往々にして自らの根底である、を疑うことほどの苦痛はありません。それ以前に何を疑えば良いのかすら普通は分かりません。
この時に多くの方々は有効であると信じます。同様に多くの方々にとって、私も多くの方々です。小グループに分かれてお互いを罵り合うのは致し方ありませんが、どうせならもっと冷たく自分を見つめたいものです。何より私はこの時にこそ、宗教の出番だと思っています。宗教は各小グループに対して付与されるものではないと考えます。宗教は各小グループの埒外にあると信じます。学問でなく宗教でなければ乗り越えられないと信じています。と言うよりは、学問的であるためには宗教的であらねばならぬと信じています。
私はこれにうっかり戦史研を巻き込みましたが、反省しています。
普段から多くの戦史研員にこれをやらないかと不真面目に言っていますが(◯◯に会いに行こうぜ、という言動のかなりの部分がこれです。今後注意して下さい)、うっかりネット上で残る形でやってしまった。申し訳ないとは思いますが、私はいつでも「宗教と学問の旅」の道連れを募集しています。
人生一般に最高の価値を見出せなくなったときには是非声をかけて下さい。その時はおそらく「人間は宇宙最高の存在だと思うか」という質問を婉曲にしますので、うまくすり抜けて下さい。それでは待ってます。
次回コミケ用サークルカット
次回のテーマは暫定的に核ということでそれっぽいサークルカットを作った上で、16日までに諸々投函する必要があります。
で、サークルカットをどうするかという所ですが、何かアイデアでもあれば。
で、サークルカットをどうするかという所ですが、何かアイデアでもあれば。
つまらん、お前の政治ジョークはつまらん
政治屋を小馬鹿にして気勢を上げる冗談はつまらないからやめて欲しいと願う宗教法人化。
どうせならスターリンジョークのように後世に残る爽やかなやつを一発頼む。
あと政治家一般と国家元首を混同するのをいい加減にして欲しい。
それとも強力な指導者が現れたのかね、同志?
説明責任は主張した側にあるのでよろしく。
だから裁判は被告側の方がやりやすいんだよ。
どうせ裁判になるなら訴えられる側になりたいもんだね。
どうせならスターリンジョークのように後世に残る爽やかなやつを一発頼む。
あと政治家一般と国家元首を混同するのをいい加減にして欲しい。
それとも強力な指導者が現れたのかね、同志?
説明責任は主張した側にあるのでよろしく。
だから裁判は被告側の方がやりやすいんだよ。
どうせ裁判になるなら訴えられる側になりたいもんだね。