Study Hard -367ページ目

今後しばらくの小目標

・学館は半年待機。新入委員の取込みに専ら力を入れる。
・早起きを兼ね、散歩ついでに教養の1限に相当する時間帯にあらゆるビラを教室から一掃する。
・チーム・マイナス99%が自治会攻撃のために結成されたことを隠蔽する。

さて、今年も

 天皇聖誕祭の季節がやって来た。クリスマスというやつだ。
 キリスト即ちメシヤとは油を注がれたる者のことであり、(ユダヤの)王を意味する。つまり日本では世界唯一の現存するエンペラーである陛下を意味するに他ならない。
 まだ1ヶ月以上あるというのに街頭はすでにお祭り気分である、殊勝なことだ。きっとあのもみの木は陛下の象徴であらせられるのであろう。寡聞にして存じないが、高天原の特産品なのだろうか。

午前1時の妄想

 妄想は午前3時の方が上。そんなことは誰でも知っている。しかし、午前1時に妄想した内容だから大したこと無いなどという言い訳が効くだろうか。

 小6だった私を戦争に駆り立てた(≠志願兵)のは妄想だった。12歳の私は、もし戦争によって人類が大いなる発見を繰り返すことが出来るならば、むしろ平時においてさえ「戦争的」に生きることによってその偉大なる効力を獲得出来るのではないかと勘違いした。そしてまた、戦争に依るどうでもいい、しかし善良なる市民はそれを殊更に戦争の特徴と主張する、副産物を回避し、かつ「平和裡に」戦争の効果を得ることが出来るのではないかと期待した。
 私は戦史を紐解くうちにある集団に遭遇した。それは「戦闘的」という用語を多用する集団であった。私は期待した。しかし、特に得られる物はなかったし、3年の妄想と3年の熟成期間を経て私はある事実に直面せざるを得なかった。それは、そもそも戦争状態と非戦争状態の区別がつかないということである。つまり、戦争に特有の現象は存在しないということを認めざるを得なくなった。
 どのようにして「戦争的」に生きるかということにのみ集中して来たはずが、結果として、具体的に「戦争的」だと言えるような生き方はないという下らないことを知ったに過ぎなかった。

 それにも関わらず、その妄想はその後も私に十分な影響を与えた。私は「戦争的に生きる」ことは諦めたが、戦争的と一般に考えられるところの事象を集め、そこから少しでもこの人々を惹き付けてやまない戦争という何ものかを知る手がかりになるのではないかという方向へ妄想を転換した。現在はそこからさらに考え方を転換したが、所詮はこれらの延長線上にある。
 わずか12歳の少年が真っ昼間に思いついた妄想が、10年後まで影響を及ぼすことが出来るのだ。ならば午前1時に妄想した内容だから大したこと無くても仕方がないなんて言える訳がないではないか。それにしても、意識して「戦争的」に生きることが出来るという考え方は、まるで「社会に対する人間の全能性=個々人の意識を変革することによって社会のすべてを変え得る」を仮定するがごとき話ではなかろうか。まさに掛け値無しの妄想だ。

 私が「自称平和主義者」たちの群れの中に闖入したのも伊達や酔狂ではなかった。これもまた10年前の妄想だった。
 善良な市民たちは何故あのような下らないことを戦争の特徴とするのか、それだけが知りたかった。そこにほんの少しでも「戦争的」であるところの何ものかを知る手がかりがあればと馬鹿な期待をした。
 しかし私がそこで知ったのは、彼らは戦争的な何ものかを非難しているのではないということだった。彼らは戦争的なものを非難しているのではなく、あらゆる「悲惨」に罵声を浴びせているだけだった。そして彼らにとって戦争とは「悲惨」の象徴に過ぎなかった。
 何を悲惨とするかは相当に主観的であるにせよ、戦争と平和が本質的に区別出来ないにせよ、(私の理解出来る表現を用いるならば)戦争とは「悲惨の濃度が高い」状況であるというのが彼らの主張なのだと思う。しかしそんなことを幾ら主張しても所詮彼らは「悲惨一般」に対して非難を浴びせているだけなのだから、濃度の差こそあれ非戦争状態としての平和も戦争同様に悲惨が絶えないという理由で非難されるべきという方向に落ち着かざるを得ないだろう。まさに平和研究が人間の安全保障に堕落したように。

 ところで、戦争を自らの美的感覚の道具として利用しようとする輩は後を絶たない。そういう人々は、本質的に戦争になど興味のない自称平和主義者たちを喜んで批判しようとする。そうすることによって自らの「審美的」立場を表現することが出来るからだ。そして彼らもまた自称平和主義者たちと同じように戦争に興味はない。
 私が彼らを同一視するのは、まさに私が「戦争的に生きようとして失敗した」個人的体験のためだ。ここにもまた10年前の妄想が顔を出す。

 このように書いているが、私が悲惨や不条理に興味がないわけではない。むしろ宗教(法人)に常に持ち込まれ続ける幾つもの主要な課題は「不条理」なものであり、持ち込んで来る当人たちはそれを「悲惨」に感じる人々であるので、興味を持たざるを得ない、というよりは「答えざるを得ない」のだ。
 そして少なくともそれに対して答えるときに「生き方」の問題、なかんづく「心の持ちよう」、であるという立場は絶対に取れない。それもまた10年前の妄想に縛られていると言えるだろう。
 そして私が宗教とは生き方のことではないと主張するのも、ひとつはここにあるとしか言えない。例えそれが戸田君の「合理的」な説明を受けてもだ。

 私は自身の次の10年を支える妄想を待っている。

【追伸】
 日向厨ことpgρはメロディック・ハードコアのことを知っているのかと妄想していたら何故かこんな記事になってしまった。そしてpgρの名前はどこにも記事に残っていなかった。