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シラサワによる福音書

「コメント欄は人のためにあり, 人がコメント欄のためにあるのではない」(シラサワ 2, 27)

【〈休学〉という表現】
 〈休学〉という表現が二年の期間を示すようになったのは、その用途と見かけの便利さのためである。この期間は、だいたい、単位の滅亡から復学に至る年代を含んでいる。
 休学の両端を正確に示すのは困難である。学生生命はいつ終わったのか、休学はいつ始まり、いつ終わったのか、復学はいつ始まったのか、それを示すのは容易ではない。

 休学の出発点として役にたつような目立つ事件は何もない。在学状態から休学状態への移行は突然生じたわけではなく、単位崩壊の過程で少しずつ準備されていた。また、たくさんのレポートや諸制度が、単位滅亡後にも存続し、〈掲示板〉にはり出され、スルーされていく。
 休学という概念の起源は、ノンポリの進学主義者のなかに求められるべきである。反留年主義者の場合には、〈休学〉という言葉がまったく侮蔑的な意味で使われ、状況はますます悪くなる。

・反留年主義者
「つまり、休学は、彼らに言わせればサークルの専権に屈従した時代である。」
「彼らは休学に暗い影を負わせ、休学は〈サークル中心主義〉に屈従した奴隷であると考える。彼らのなかで休学しようとする人は一人もなく、空虚で詭弁的なおしゃべりによって増幅されたエラスムス流の毒舌を繰り返すだけである。」
「トリベホフ(1641-1689年)...の言うところによれば、休学者は、無教養で傲慢な野蛮人であり、自分の在位年数を自慢し、学生を学部よりも優位におく反学部であり、複雑な枝葉末節のことに拘泥し、自主休講を出席よりも優位におき、民青から詭弁術を学んだ。」

・活動家
 彼らは休学という画面の暗さを強調するが、その画面のなかでは、休学の描写よりも、むしろ学部と、そのすべての制度に対する憎悪から生じる彼らの党派制の方が目立っている。彼らは中傷の限界というよりも、グロテスクの限界と言えるほど、三文小説まがいの悪口を吐き散らし、あまりにも安易で、偽りに満ち、悪意に満ちた対立概念を、次々に積み重ねていく。

・ノンポリ学生
 ノンポリ学生の見方も、あまり変わってはいない。使い古された主題の繰り返しである。他クラの視線に晒され、在学期限の《まぼろし》におびえ、医者と学科長の手にゆだねられた二年の夜。押しつぶされる将来の展望(第二新卒)。セクトが代々木から持ち帰った政治病の苦痛。汚れ。嘔吐。
 けれども、彼らは休学に限らず、進学先に関しても、表面的なことしか知らないという悲しむべき欠陥をもっていた。

「ロバートソンによれば、学生自治は人間の狂気のみごとな記念碑である。ミシュレは、まるで楽劇の低音部のような調子で学部と寮生の《大決戦》を物語るのだが、この決戦では、言うまでもなく、寮生のほうが、〈在学期限〉という生まれかわりによって、敗北するのである。」

【元】
 G.フライレ/T.ウルダノス著『西洋哲学史 中世Ⅰ』山根平和/M.アモロス訳, 新世社, 1992年(第2版).

【追伸】
 百科全書派=活動家

構造的理解(お便りつき)

【ラノベ概念の理解のために】
 某氏がラノベをなんとなく読んじゃう感覚は、自分で言うと山本義隆をなんとなく読んじゃう感覚に相当するに違いない。未読のラノベを手当たり次第買うその姿は、丁度みすず書房の棚の前で揺れてる自分と同じような感じだろう。
 山本義隆の著作は、挿絵も多い気がする。熱学思想の史的展開でさっき読んだところだと、サヂ・カルノーの肖像画が入ってた。それだけ。

 山本義隆や志賀浩二がラノベだとすると(あくまでも挿絵や図版の多さという意味)、一般的な数学書は一般的な小説ということになるのだろうか。
 それにしても、扱っている対象の図示しやすさが違うだけかもしれないが、この複素関数論の本は本当に図示という概念が無い(※)な。

※興味のある人は、梶原壤二の「複素関数論」(1968年!)を参照

【好み】
 最近、山本義隆の「熱学思想の史的展開」とヒルベルトの「幾何学基礎論」のどちらかがコートのポケットに大抵入っているが、圧倒的に前者の方が読みやすい。ただの好みの問題なのか、もっと本質的な問題なのか。
 まず前者は全体像が題名から見えやすい、一方で後者は何を意図しているのか題名から理解するのはほとんど不可能である。と思ったが、ラノベだって題名から直ちに内容がわかるわけでもないか。
 それでは、前者は前提知識をあまり必要としないのに比べて、後者は(体系そのものではなく、体系が企図するところの全体の)理解のための膨大な前提を必要とする。と思ったが、冷静に考えると、山本義隆だって前提知識がない人には異常に読み辛い気がする。むしろ、数学障害者にとっては、山本作品の本文中に大量に出てくる数式にこそ目眩がするか。

 数式や図版が大量に出てくる方が理解が易しく、延々と文章のような記号の羅列が続く方が絶望的になる。というのが正しい感覚。これは絶対そう。
 そして、自然言語のみで書かれた著作には常に絶望させられる。

 数式を使わない解説書というのは確かにあるが、単に見た目として数式的な表記を使っていないだけで、数式同等物を多用している気がしてならない。
 いわゆる「文系」が数式を嫌う理由は、どうやら変形が出来ないことに依るのが大半のようだ。つまり、数式間のギャップが埋められないという意味である。しかし、彼/彼女らが気付いていないのは、彼/彼女らは数式のみならず一般的な論理のギャップも埋められていないということである。単に、数式の存在は、彼/彼女らの知識不足を鮮明にしているに過ぎない。

 翻ってみれば、当たり前のことだが、山本作品は熱という対象を扱った諸学諸論のストーリーであり、ヒルベルト作品は紛うことなき数学そのものである。
 大雑把に言えば、山本作品はほとんど内容への理解を必要としない(?)形で諸論の関係を示している。一方で、ヒルベルト作品を同等に楽しむためには、内容をよく理解した上で、それを関係の中に位置づけなければならない。つまり、与えられたストーリーと、自らストーリーを構築する労力の違いである。と言いたいところだが、実際には、解説の形で幾何学基礎論の意味が本人および訳者から与えられる。

 というわけで、山本作品は構造的で、ヒルベルトの幾何学は個別的だとグダグダ考えた次第。
 もっと言えば、「いわゆるストーリーとは構造であり、内容を示さない」のだという話をどこかに延長してみようかと妄想していただけである。

【結論】
 以上の文章から以下のような話が出てくると思う人は、普段から私の言動を聞いている人以外にはいないだろうが。

・主張
 歴史はストーリーであるという主張の最大の問題点は、(構造が定まる)歴史全体の存在を必要とすることである。
 また、歴史の本質をストーリーとする考え方は、歴史に(普遍的な)構造が存在するという歴史観に相違なく、保証されない。

・反対意見
 ストーリー=関係一般が近似手法として有効な範囲があればよい。そこでは、事象および関係から導かれる全体が閉じている必要すらない。

・方便的解説
 ストーリー派の歴史とは「創世から審判にいたる過程の全体」であるが、それは保証されないという主張部分。
 それに対して、ストーリーとはローカルな概念であり、かつ対応するグローバルな概念を必要としない、という反対意見。

【余談】
 何事にも中核が必要であり。
 中核のない言動に意味はなく。
 意味のない言動は誰も聞きたくなく。
 誰も聞きたくない話はsensikenであり。
 sensikenはkwskのパスである。
 以上から、kwskのパスは空虚である。

 sensikenに共有パスは存在しないことが示された。

【もっと余談】
 誰も聞きたくない話の例:左翼批判
 誰もが聞きたい話の例:ニセ「左翼」暴力集団批判

 Km(善)君が、最近やたらと「国士様」なるものを批判したがっているが、余程癪に触ることでもあったのだろうか。
 まったくもってsensikenであることだ。

【酷い余談】
 北本君からお便りが来たが、とても元気そうだった。
 某OB氏の釣り耐性の低さは如何ともし難いところで、当該事案の諸行為にsensikenを感じざるをえないが、結果自体は有益であったようだ。
 今回は、世界の非線形性に救われた形であるが、均衡点付近の挙動においてsensikenしない保証はない。単極性は世界の半分しか理解していないことを謙虚に受け止めて頂きたいものだ。

喜劇の誕生

 自衛隊が勝利するセカイ。
 人口の10%が、数学や物理学、あるいは「正統な」学術訓練を修了したとき。

【1度目は悲劇】
 某学科長と話をしたときのこと。
 よく訓練されたVCを強く社会が要請しているという話をしていたところ、学科長が似たような話を聞いたことがあると返してきた。なんでも、財務省に行った卒業生が、自分たちから見るとメチャクチャなことを内部でやっているということを以前語っていたそうだ。
 J隊やお役所がどうしようもないだけなら言い訳もつくが、財務でも結局は同じという話。

【なめらかな不勉強】
 特定の手法を身につけた職人だけではなくて、結局のところアレをアレできるアレが常に大量に必要とされているのであり、つまり"study hard"。

【ホッブズ的セカイ】
 万人が万人に対して不勉強ゆえ無意識のうちに闘争している。
 自分が何をしているのか分かるようになれば、勉強は8割修了であることだ。