構造的理解(お便りつき)
【ラノベ概念の理解のために】
某氏がラノベをなんとなく読んじゃう感覚は、自分で言うと山本義隆をなんとなく読んじゃう感覚に相当するに違いない。未読のラノベを手当たり次第買うその姿は、丁度みすず書房の棚の前で揺れてる自分と同じような感じだろう。
山本義隆の著作は、挿絵も多い気がする。熱学思想の史的展開でさっき読んだところだと、サヂ・カルノーの肖像画が入ってた。それだけ。
山本義隆や志賀浩二がラノベだとすると(あくまでも挿絵や図版の多さという意味)、一般的な数学書は一般的な小説ということになるのだろうか。
それにしても、扱っている対象の図示しやすさが違うだけかもしれないが、この複素関数論の本は本当に図示という概念が無い(※)な。
※興味のある人は、梶原壤二の「複素関数論」(1968年!)を参照
【好み】
最近、山本義隆の「熱学思想の史的展開」とヒルベルトの「幾何学基礎論」のどちらかがコートのポケットに大抵入っているが、圧倒的に前者の方が読みやすい。ただの好みの問題なのか、もっと本質的な問題なのか。
まず前者は全体像が題名から見えやすい、一方で後者は何を意図しているのか題名から理解するのはほとんど不可能である。と思ったが、ラノベだって題名から直ちに内容がわかるわけでもないか。
それでは、前者は前提知識をあまり必要としないのに比べて、後者は(体系そのものではなく、体系が企図するところの全体の)理解のための膨大な前提を必要とする。と思ったが、冷静に考えると、山本義隆だって前提知識がない人には異常に読み辛い気がする。むしろ、数学障害者にとっては、山本作品の本文中に大量に出てくる数式にこそ目眩がするか。
数式や図版が大量に出てくる方が理解が易しく、延々と文章のような記号の羅列が続く方が絶望的になる。というのが正しい感覚。これは絶対そう。
そして、自然言語のみで書かれた著作には常に絶望させられる。
数式を使わない解説書というのは確かにあるが、単に見た目として数式的な表記を使っていないだけで、数式同等物を多用している気がしてならない。
いわゆる「文系」が数式を嫌う理由は、どうやら変形が出来ないことに依るのが大半のようだ。つまり、数式間のギャップが埋められないという意味である。しかし、彼/彼女らが気付いていないのは、彼/彼女らは数式のみならず一般的な論理のギャップも埋められていないということである。単に、数式の存在は、彼/彼女らの知識不足を鮮明にしているに過ぎない。
翻ってみれば、当たり前のことだが、山本作品は熱という対象を扱った諸学諸論のストーリーであり、ヒルベルト作品は紛うことなき数学そのものである。
大雑把に言えば、山本作品はほとんど内容への理解を必要としない(?)形で諸論の関係を示している。一方で、ヒルベルト作品を同等に楽しむためには、内容をよく理解した上で、それを関係の中に位置づけなければならない。つまり、与えられたストーリーと、自らストーリーを構築する労力の違いである。と言いたいところだが、実際には、解説の形で幾何学基礎論の意味が本人および訳者から与えられる。
というわけで、山本作品は構造的で、ヒルベルトの幾何学は個別的だとグダグダ考えた次第。
もっと言えば、「いわゆるストーリーとは構造であり、内容を示さない」のだという話をどこかに延長してみようかと妄想していただけである。
【結論】
以上の文章から以下のような話が出てくると思う人は、普段から私の言動を聞いている人以外にはいないだろうが。
・主張
歴史はストーリーであるという主張の最大の問題点は、(構造が定まる)歴史全体の存在を必要とすることである。
また、歴史の本質をストーリーとする考え方は、歴史に(普遍的な)構造が存在するという歴史観に相違なく、保証されない。
・反対意見
ストーリー=関係一般が近似手法として有効な範囲があればよい。そこでは、事象および関係から導かれる全体が閉じている必要すらない。
・方便的解説
ストーリー派の歴史とは「創世から審判にいたる過程の全体」であるが、それは保証されないという主張部分。
それに対して、ストーリーとはローカルな概念であり、かつ対応するグローバルな概念を必要としない、という反対意見。
【余談】
何事にも中核が必要であり。
中核のない言動に意味はなく。
意味のない言動は誰も聞きたくなく。
誰も聞きたくない話はsensikenであり。
sensikenはkwskのパスである。
以上から、kwskのパスは空虚である。
sensikenに共有パスは存在しないことが示された。
【もっと余談】
誰も聞きたくない話の例:左翼批判
誰もが聞きたい話の例:ニセ「左翼」暴力集団批判
Km(善)君が、最近やたらと「国士様」なるものを批判したがっているが、余程癪に触ることでもあったのだろうか。
まったくもってsensikenであることだ。
【酷い余談】
北本君からお便りが来たが、とても元気そうだった。
某OB氏の釣り耐性の低さは如何ともし難いところで、当該事案の諸行為にsensikenを感じざるをえないが、結果自体は有益であったようだ。
今回は、世界の非線形性に救われた形であるが、均衡点付近の挙動においてsensikenしない保証はない。単極性は世界の半分しか理解していないことを謙虚に受け止めて頂きたいものだ。
某氏がラノベをなんとなく読んじゃう感覚は、自分で言うと山本義隆をなんとなく読んじゃう感覚に相当するに違いない。未読のラノベを手当たり次第買うその姿は、丁度みすず書房の棚の前で揺れてる自分と同じような感じだろう。
山本義隆の著作は、挿絵も多い気がする。熱学思想の史的展開でさっき読んだところだと、サヂ・カルノーの肖像画が入ってた。それだけ。
山本義隆や志賀浩二がラノベだとすると(あくまでも挿絵や図版の多さという意味)、一般的な数学書は一般的な小説ということになるのだろうか。
それにしても、扱っている対象の図示しやすさが違うだけかもしれないが、この複素関数論の本は本当に図示という概念が無い(※)な。
※興味のある人は、梶原壤二の「複素関数論」(1968年!)を参照
【好み】
最近、山本義隆の「熱学思想の史的展開」とヒルベルトの「幾何学基礎論」のどちらかがコートのポケットに大抵入っているが、圧倒的に前者の方が読みやすい。ただの好みの問題なのか、もっと本質的な問題なのか。
まず前者は全体像が題名から見えやすい、一方で後者は何を意図しているのか題名から理解するのはほとんど不可能である。と思ったが、ラノベだって題名から直ちに内容がわかるわけでもないか。
それでは、前者は前提知識をあまり必要としないのに比べて、後者は(体系そのものではなく、体系が企図するところの全体の)理解のための膨大な前提を必要とする。と思ったが、冷静に考えると、山本義隆だって前提知識がない人には異常に読み辛い気がする。むしろ、数学障害者にとっては、山本作品の本文中に大量に出てくる数式にこそ目眩がするか。
数式や図版が大量に出てくる方が理解が易しく、延々と文章のような記号の羅列が続く方が絶望的になる。というのが正しい感覚。これは絶対そう。
そして、自然言語のみで書かれた著作には常に絶望させられる。
数式を使わない解説書というのは確かにあるが、単に見た目として数式的な表記を使っていないだけで、数式同等物を多用している気がしてならない。
いわゆる「文系」が数式を嫌う理由は、どうやら変形が出来ないことに依るのが大半のようだ。つまり、数式間のギャップが埋められないという意味である。しかし、彼/彼女らが気付いていないのは、彼/彼女らは数式のみならず一般的な論理のギャップも埋められていないということである。単に、数式の存在は、彼/彼女らの知識不足を鮮明にしているに過ぎない。
翻ってみれば、当たり前のことだが、山本作品は熱という対象を扱った諸学諸論のストーリーであり、ヒルベルト作品は紛うことなき数学そのものである。
大雑把に言えば、山本作品はほとんど内容への理解を必要としない(?)形で諸論の関係を示している。一方で、ヒルベルト作品を同等に楽しむためには、内容をよく理解した上で、それを関係の中に位置づけなければならない。つまり、与えられたストーリーと、自らストーリーを構築する労力の違いである。と言いたいところだが、実際には、解説の形で幾何学基礎論の意味が本人および訳者から与えられる。
というわけで、山本作品は構造的で、ヒルベルトの幾何学は個別的だとグダグダ考えた次第。
もっと言えば、「いわゆるストーリーとは構造であり、内容を示さない」のだという話をどこかに延長してみようかと妄想していただけである。
【結論】
以上の文章から以下のような話が出てくると思う人は、普段から私の言動を聞いている人以外にはいないだろうが。
・主張
歴史はストーリーであるという主張の最大の問題点は、(構造が定まる)歴史全体の存在を必要とすることである。
また、歴史の本質をストーリーとする考え方は、歴史に(普遍的な)構造が存在するという歴史観に相違なく、保証されない。
・反対意見
ストーリー=関係一般が近似手法として有効な範囲があればよい。そこでは、事象および関係から導かれる全体が閉じている必要すらない。
・方便的解説
ストーリー派の歴史とは「創世から審判にいたる過程の全体」であるが、それは保証されないという主張部分。
それに対して、ストーリーとはローカルな概念であり、かつ対応するグローバルな概念を必要としない、という反対意見。
【余談】
何事にも中核が必要であり。
中核のない言動に意味はなく。
意味のない言動は誰も聞きたくなく。
誰も聞きたくない話はsensikenであり。
sensikenはkwskのパスである。
以上から、kwskのパスは空虚である。
sensikenに共有パスは存在しないことが示された。
【もっと余談】
誰も聞きたくない話の例:左翼批判
誰もが聞きたい話の例:ニセ「左翼」暴力集団批判
Km(善)君が、最近やたらと「国士様」なるものを批判したがっているが、余程癪に触ることでもあったのだろうか。
まったくもってsensikenであることだ。
【酷い余談】
北本君からお便りが来たが、とても元気そうだった。
某OB氏の釣り耐性の低さは如何ともし難いところで、当該事案の諸行為にsensikenを感じざるをえないが、結果自体は有益であったようだ。
今回は、世界の非線形性に救われた形であるが、均衡点付近の挙動においてsensikenしない保証はない。単極性は世界の半分しか理解していないことを謙虚に受け止めて頂きたいものだ。