お約束なる意匠
【旧約聖書ごっこ】
長文を書くとこうやって冒頭に一言付け加えたくなるのを考えれば、旧約聖書を遡る方向に付け加えたくなるのも理解できなくもない気もしなくはない。
【雪の日は車が強くお約束する】
意図しないにも関わらずどこかで見たような結末を迎えるのがお約束だとすれば、そうなるように意図したものはそのような意匠として区別される必要がある。
それでは、意識的でない趣向を凝らしたところそれがアスペルガー症候群的ではあったがアスペルガー症候群ではない人、のことをなんと呼ぶと面白いだろうか。
【擬態アスペルガー症候群】
まずは自閉症のことだが、S竹君はもちろんのこと、A井さんも別に自閉症(アスペルガー症候群)ではない。下記リンク先を参照すれば大体理解されるだろう。
http://www.autism.or.jp/autism05/handan.htm
かと言って、彼らが境界性ではないとも言えないし、何らかの発達障害またはそれに類するものではないのかどうかも知らない。
特に興味深いのが次の、
『楽しみ、興味、成し遂げたものを他人と共有すること(例:興味のあるものをみせる,もって来る,指さす)を自発的に求めることの欠如。』
という項目で、「ある種の人たち」はこの例において正反対の傾向が顕著だ。つまり自閉症ではないものの、自閉症かどうかを判断する基準の一つにおいて自閉症とは正反対に顕著な傾向を示すということであり、発達障害かどうかというよりも「なるほどな」という感覚を得る。すべては程度の問題だとでも言おうか。
専門知識のない人間がこういうことを言うのもアレだが、つまりはステロタイプな「変人」ということなんだろうなあと思う。社会生活を送るのに著しい障害が無いならば、それはもう性格ということでよろしいと。
ところがこの2人に対して少なからぬ人が、アスペルガー症候群ではないかという合理的疑い(?)を抱くようである。
単純に自閉症に対する理解が無いことによる誤解という可能性もある(知識の欠如により私が2人の発達障害を理解できないのではない限りにおいて)が、一方で本人たちがアスペルガー症候群的意匠を凝らしているという可能性もある。それもアスペルガー症候群への理解の元でやっているというよりは、何らかの趣向がそのままそれであったと言うべきだろう。というのが冒頭の話に繋がる。
別に呼び名を考えたわけではない。単にツラツラと述べてみたまで。
【妄想は人生の下支え】
S竹君に対して、なぜ他人を馬鹿にしたような態度をとるのかと非難してはいたが、別におかしい態度だとは思っていなかった。あくまでも戦史研員である以上は「躾」をしなくてはならないと思い形式的にやっていたまでだ。
知性の低い人ほど周囲を見下すという言説がまことしやかに囁かれるが、この言説も所詮は凡俗の慰めに過ぎない。
もちろんこの言説は相対値の問題としては正しい。簡単に言えば「お前に言われたくねーよ」という意味である。しかし絶対値の問題だと考えると、所詮ほとんどの人は馬鹿の領域から抜け出せてはいないが、ただそれを言っている本人もまたほとんどの場合は馬鹿であるということに過ぎない。つまり、周囲の人間が馬鹿ばかりなのは確かだが、それを言っている本人も同じ穴の狢なので、だから口にはするな、ということだ。
また同時に、良く言っていることだが、馬鹿の最大の特技は同類を嗅ぎ分けることである。つまり段落冒頭の言説は、馬鹿は良く馬鹿を見抜くという意味でもある。見抜かれた(かつ自身が馬鹿ではないと感じて安心を得ている)側は不愉快になり「馬鹿に言われたくねーよ」と感じるだろうが、その感覚がもう手遅れである。
馬鹿という単語は抽象的に用いられがちだが、一応ここでは頭が固いという意味で使っている。学べば固ならずという格言があるが、学のある人を探すのは面倒なので、対偶を考えて固い人を探してみると良いだろう。
ところで固くないというのは別に宥和的なことでも無信念のことでもない。むしろ如何にも他者理解があるような風情をしてみせるという頭の固さから抜け出すことができるのも学問の良さである。
以上から理解して頂けると思うが、S竹君が如何にも他人を馬鹿にしたような態度をとった際に本質的に責めていたのは、決して他人が馬鹿だという指摘をすることではなく、他人事にしか目がいかないその態度であった。
他人が馬鹿であることが気になるのは性格の問題に過ぎず、ただ気付くべきはそのような指摘が無意味だということであり、いわゆる専門家を馬鹿にするのも同じく無意味だということだ。
本当にシニカルに生きようと思うなら、他人に吐きかける言葉と自分にかける首つり縄を同時に持つべきだろう。賢くもディオゲネスはそんなことは言わなかったが。
長文を書くとこうやって冒頭に一言付け加えたくなるのを考えれば、旧約聖書を遡る方向に付け加えたくなるのも理解できなくもない気もしなくはない。
【雪の日は車が強くお約束する】
意図しないにも関わらずどこかで見たような結末を迎えるのがお約束だとすれば、そうなるように意図したものはそのような意匠として区別される必要がある。
それでは、意識的でない趣向を凝らしたところそれがアスペルガー症候群的ではあったがアスペルガー症候群ではない人、のことをなんと呼ぶと面白いだろうか。
【擬態アスペルガー症候群】
まずは自閉症のことだが、S竹君はもちろんのこと、A井さんも別に自閉症(アスペルガー症候群)ではない。下記リンク先を参照すれば大体理解されるだろう。
http://www.autism.or.jp/autism05/handan.htm
かと言って、彼らが境界性ではないとも言えないし、何らかの発達障害またはそれに類するものではないのかどうかも知らない。
特に興味深いのが次の、
『楽しみ、興味、成し遂げたものを他人と共有すること(例:興味のあるものをみせる,もって来る,指さす)を自発的に求めることの欠如。』
という項目で、「ある種の人たち」はこの例において正反対の傾向が顕著だ。つまり自閉症ではないものの、自閉症かどうかを判断する基準の一つにおいて自閉症とは正反対に顕著な傾向を示すということであり、発達障害かどうかというよりも「なるほどな」という感覚を得る。すべては程度の問題だとでも言おうか。
専門知識のない人間がこういうことを言うのもアレだが、つまりはステロタイプな「変人」ということなんだろうなあと思う。社会生活を送るのに著しい障害が無いならば、それはもう性格ということでよろしいと。
ところがこの2人に対して少なからぬ人が、アスペルガー症候群ではないかという合理的疑い(?)を抱くようである。
単純に自閉症に対する理解が無いことによる誤解という可能性もある(知識の欠如により私が2人の発達障害を理解できないのではない限りにおいて)が、一方で本人たちがアスペルガー症候群的意匠を凝らしているという可能性もある。それもアスペルガー症候群への理解の元でやっているというよりは、何らかの趣向がそのままそれであったと言うべきだろう。というのが冒頭の話に繋がる。
別に呼び名を考えたわけではない。単にツラツラと述べてみたまで。
【妄想は人生の下支え】
S竹君に対して、なぜ他人を馬鹿にしたような態度をとるのかと非難してはいたが、別におかしい態度だとは思っていなかった。あくまでも戦史研員である以上は「躾」をしなくてはならないと思い形式的にやっていたまでだ。
知性の低い人ほど周囲を見下すという言説がまことしやかに囁かれるが、この言説も所詮は凡俗の慰めに過ぎない。
もちろんこの言説は相対値の問題としては正しい。簡単に言えば「お前に言われたくねーよ」という意味である。しかし絶対値の問題だと考えると、所詮ほとんどの人は馬鹿の領域から抜け出せてはいないが、ただそれを言っている本人もまたほとんどの場合は馬鹿であるということに過ぎない。つまり、周囲の人間が馬鹿ばかりなのは確かだが、それを言っている本人も同じ穴の狢なので、だから口にはするな、ということだ。
また同時に、良く言っていることだが、馬鹿の最大の特技は同類を嗅ぎ分けることである。つまり段落冒頭の言説は、馬鹿は良く馬鹿を見抜くという意味でもある。見抜かれた(かつ自身が馬鹿ではないと感じて安心を得ている)側は不愉快になり「馬鹿に言われたくねーよ」と感じるだろうが、その感覚がもう手遅れである。
馬鹿という単語は抽象的に用いられがちだが、一応ここでは頭が固いという意味で使っている。学べば固ならずという格言があるが、学のある人を探すのは面倒なので、対偶を考えて固い人を探してみると良いだろう。
ところで固くないというのは別に宥和的なことでも無信念のことでもない。むしろ如何にも他者理解があるような風情をしてみせるという頭の固さから抜け出すことができるのも学問の良さである。
以上から理解して頂けると思うが、S竹君が如何にも他人を馬鹿にしたような態度をとった際に本質的に責めていたのは、決して他人が馬鹿だという指摘をすることではなく、他人事にしか目がいかないその態度であった。
他人が馬鹿であることが気になるのは性格の問題に過ぎず、ただ気付くべきはそのような指摘が無意味だということであり、いわゆる専門家を馬鹿にするのも同じく無意味だということだ。
本当にシニカルに生きようと思うなら、他人に吐きかける言葉と自分にかける首つり縄を同時に持つべきだろう。賢くもディオゲネスはそんなことは言わなかったが。
之は或る兵士が最期に遺した炒飯氏への私信であろう
オタが無謬である唯一の理由。
http://ameblo.jp/war/entry-10058615759.html
【留年・休学および放校の一般理論】
大学に入ってなにをするのかという質問に一般的な意味はあるか。
無い。何故なら機会費用の考え方からすれば、大学に入るということはそれ以外のすべての可能性をコストすることだから。従って、大学に入らずになにをするのかという質問は成立するが、入ってなにをするかという質問はこの範囲において無意味。異なる層の話を混同した悪問。
逆に大学をやめてなにをするのかという質問には意味がありそうだ。ここで重要なのは、大学をやめることによって恢復する選択肢は何かということだが、聞いてみればいいよね。
大学生活と自由時間の間に本質的な因果関係はあるか。自由時間とは、Hentaiに対する可処分時間のことを指すとする。
未解決。
http://ameblo.jp/war/entry-10058615759.html
【留年・休学および放校の一般理論】
大学に入ってなにをするのかという質問に一般的な意味はあるか。
無い。何故なら機会費用の考え方からすれば、大学に入るということはそれ以外のすべての可能性をコストすることだから。従って、大学に入らずになにをするのかという質問は成立するが、入ってなにをするかという質問はこの範囲において無意味。異なる層の話を混同した悪問。
逆に大学をやめてなにをするのかという質問には意味がありそうだ。ここで重要なのは、大学をやめることによって恢復する選択肢は何かということだが、聞いてみればいいよね。
大学生活と自由時間の間に本質的な因果関係はあるか。自由時間とは、Hentaiに対する可処分時間のことを指すとする。
未解決。
かなりの高津区民
持続可能な地域交通を考える会
http://sltc.jp/
かなり高位の高津区民とお見受けしたが如何。宮前区民ないし多摩区民の可能性も排除できないがなんとなく。
地元のことなので読んでいて非常に面白い。語弊を恐れずに言えば、極めて優れた内輪受けサイトである。即座に興味有りと打診した。
モボモガ・クラスタである川崎市に疎いさいたま民の皆さんにご説明申し上げると、川崎市は北西の丘陵部を北部、臨海部を南部と言う。なので川崎市北・中部と言えば概ね、多摩区、宮前区、高津区の辺りを示すと推察できるし、実際リンク先もその辺りについて言及している。
個人的な立場は、川崎市営地下鉄ができればそれはそれで喜ばしい思うし、川崎縦貫道路が外環として完成(そうなるとは思えないが)してくれると助かると思っているので、リンク先の提唱内容には弱い賛意を示すに留まる。真面目な表現を使えば「より高度に調和した総合交通体系の確立に寄与することを期待する」となるが、要するに「面白そうじゃん」ということである。
【ぼくのかんがえた最も参考になるサイト】
リンク先を低く見るつもりはまったくないと断っておくが、このリンク先は非常に「ぼくのかんがえた」の参考になる。どうせ考えるならこのレベルまで精細に記述してこその「ぼくのかんがえた」だ。
もちろんリンク先もなんら影響を与えることなく収束すれば立派な「ぼくのかんがえた」の仲間入り(むしろ殿堂入り)だが、逆に言えば「ぼくのかんがえた」がまかり間違って現実に影響力を持ってしまえばそれはもう立派な何か(政治とか)だ。
「ぼくのかんがえた」は詳細であればあるほど精彩を放つ。
さいきょうDDを例にとれば、戦闘システムや配置にまで言及すれば及第点であり、「作業効率」や「どのように予算がついたのか」まで言及があればなお良い。逆に簡単な諸元や主要兵装に言及するに留まっているようなものは低レベルと言わざるを得ない。
「ぼくのかんがえた」シーンもまた厳しい。
http://sltc.jp/
かなり高位の高津区民とお見受けしたが如何。宮前区民ないし多摩区民の可能性も排除できないがなんとなく。
地元のことなので読んでいて非常に面白い。語弊を恐れずに言えば、極めて優れた内輪受けサイトである。即座に興味有りと打診した。
モボモガ・クラスタである川崎市に疎いさいたま民の皆さんにご説明申し上げると、川崎市は北西の丘陵部を北部、臨海部を南部と言う。なので川崎市北・中部と言えば概ね、多摩区、宮前区、高津区の辺りを示すと推察できるし、実際リンク先もその辺りについて言及している。
個人的な立場は、川崎市営地下鉄ができればそれはそれで喜ばしい思うし、川崎縦貫道路が外環として完成(そうなるとは思えないが)してくれると助かると思っているので、リンク先の提唱内容には弱い賛意を示すに留まる。真面目な表現を使えば「より高度に調和した総合交通体系の確立に寄与することを期待する」となるが、要するに「面白そうじゃん」ということである。
【ぼくのかんがえた最も参考になるサイト】
リンク先を低く見るつもりはまったくないと断っておくが、このリンク先は非常に「ぼくのかんがえた」の参考になる。どうせ考えるならこのレベルまで精細に記述してこその「ぼくのかんがえた」だ。
もちろんリンク先もなんら影響を与えることなく収束すれば立派な「ぼくのかんがえた」の仲間入り(むしろ殿堂入り)だが、逆に言えば「ぼくのかんがえた」がまかり間違って現実に影響力を持ってしまえばそれはもう立派な何か(政治とか)だ。
「ぼくのかんがえた」は詳細であればあるほど精彩を放つ。
さいきょうDDを例にとれば、戦闘システムや配置にまで言及すれば及第点であり、「作業効率」や「どのように予算がついたのか」まで言及があればなお良い。逆に簡単な諸元や主要兵装に言及するに留まっているようなものは低レベルと言わざるを得ない。
「ぼくのかんがえた」シーンもまた厳しい。