もうね、胡散臭くても、偽善でもなんでもいいの。
俺の絵が、現在、未来、で誰かの光になればそれでいい。
そうやって理由や意味を自分で付け足していかないと、全てが無意味に見えて、何も出来なくなる。
意味なんかなくても、目的なんてなくても、結局は描くんだけどね。
ただ、目指すとこがないとクウォリティは落ちる。
誰にも見せないんだったら少々の塗りムラも絵の具のはみ出しも気にしないし。
僕の絵を通して、僕の考え方が、僕の発信したメッセージが、誰かの光になればいい。
でも、それは、僕が誰かの光に、生きる力という夜空にキラキラ輝く星のような強烈なパワーよりかは、停電した時の仮の灯りとして灯すロウソクのような優しい光でありたい。
常にキラキラじゃなくて、必要な時にさっと取り出して火を灯すような。
誰かのためって言ってるけど、誰かのために何かをしたい自分のために生きてるし描いてる。
そこを忘れちゃダメだ。
偽善でもいいと書いたけれども、最近思うところがあって、偽善でも、胡散臭くてもいいけど、人は良き人でありたいと、「正義」を貫こうとすればするほど、前だけしか見えなくなってしまう。
つまり、自分の正義を盲信してしまって、多面的に、俯瞰的にモノが見えなくなる。
今の自分がそうなってるんじゃないかと危惧してます。
「間違ってる人」と僕が思い込んでる人にっと言うよりも、単純に僕が嫌いなタイプの人たちに対しての言葉や考えが、拒否反応が凄いなと。
「嫌いなタイプ」に対してどこか羨ましさだったり、そういうのがあるから拒否反応が強くなるのかなぁっと少し冷静になって考えてもみるけど、嫌いなもんは嫌いで、自分自身に満足してなくて、幸せを感じてなくて、頭で分かっていても気持ちが充足されてなくて、認めたくない人たちへの拒否反応が強いのかな。
いろんな考え、生き方、があるし、人を殺すとか、人のモノ取るとか、過度の迷惑さへかけなければ間違いなんて1つもないし(根源的な意味で)、少々の迷惑なんてお互い様だし、自分が弱い部分は強い人に頼ったらいいし、逆に自分が得意なことは、不得意な人の力になればいい。
多様性を知りたいし、持ちたいし、認めたいけど、全てを受け入れられるほど、まだ大人じゃない。
まだまだ未熟者です。
いったい私はどこを目指しているのだろうか?


