9月ももう半ば。
先週はひどく暑かったのですが、昨日からは少し過ごしやすく、日差しも風もどこか秋。
長女は大学が始まるので、今日、アパートに戻りました。
夏が終わったなと感じます。
夕べは息子も一緒に娘と最後の晩餐でした。
若者との会話の中にもたくさんのヒントが転がっていて、話しているうちに癖でついつい数字を連想してしまったので、今日はなにか書いてみたくなりました。
Applicationが下手だね、と言われると腹が立つ。
娘がそう言っていました。
息子に、この場合のアプライってどんな感じ?と尋ねたら、
算数の問題に方程式をアプライする、って感じという答えでした。
いろいろな方程式を知っていたとしても、その問題を解くのに最適のものを選び出してアプライしなければ、永遠に解にはたどり着かない。
なるほどなー。
このあたりから、私の頭は数字と一緒に脱線。
考え出したらどこまでも広がっていってしまうのは、昨夜はこちらで9の日だったからかもしれないです。
長女がなぜそのセリフが悔しかったのか、私には少し理解できるように思いました。
宝の持ち腐れ。
豚に真珠。
猫に小判。
こうやって書いてみると、人の心を萎えさせるような言葉は結構存在する。
悲しいけれど、ずっと昔からそういう人間関係の煩わしさがあったということなんだろうと思います。
知っててもうまく使えないのなら無意味だよ。
もしくは、論じ方に無駄が多く、美しくない。
おそらく娘はそんなふうに言われたと感じたのでしょう。
努力しているからこそ湧いてくる感情なのだろうから、変な言葉だけれど、”すばらしい怒り”だと思いました。
今日はこちらで数秘術1の日。
これからも娘が”すばらしい怒り”を感じる度に、それらはきっと推進力に変わるはず。
新しい始まりにぴったりだなと思っています。
感情にどんなタグをアプライするかによって、
推進力に変えて前に進むことも、後ろ向きに後退することも可能だと思います。
”単なる怒り”というタグをアプライして文句たらたらで終わらせるのか。
”悔しさをバネに”というタグをアプライしてもっと強くなるのか。
”坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”というタグをアプライしてあれもこれも嫌いになってしまうのか。
どんなタグをアプライするかは、これまでの経験が影響してくるんじゃないかなと私は思います。
以前、”坊主憎けりゃ…”のタグをアプライした経験は、その後どんな後味だったかな。
以前、”単なる怒り”のタグをアプライしてブツブツ文句をまき散らした結果は、どんな後味だったかな。
いろんな自分を経験しておくと、タグ付けが上手になっていく。
この感覚は、9から1という流れの中に感じられるように思います。
酸いも甘いもなんとかで、スイートな自分ばかりを愛でるのもアンバランス。
苦くてしょっぱくてまずくて食えないくらいの自分も、必ず自分の中にいる。
そう思っておけば、感情の弥次郎兵衛は危機一髪という時にも上手にゆらゆらしてくれるもので、大概の自分を笑い飛ばせるようになる。
いろんな自分が自分を作っている大切なひとつひとつのパーツであり、だからこそ、必要に応じてあれこれ組み替えて違った自分を再発見できる。
バラしては組みなおし、整えてみたりこだわってみたりして、気づけばパーツが増えて前よりずっといい感じになっている。
9から1へ、そこから1、2、3、4、5,6,7,8,そしてまた9へ。
自分というものほど難解な問題はなく、これでもないあれでもないといろんな方程式をあてはめ続けてみるのが人生なのかな、と思った夜でした。
最近読んでしびれた文章です。
”すべての懐疑にも拘らず人生は確実なものである。
なぜなら、人生は形成作用である故に、単に在るものでなく、作られるものである故に。”
ー 三木清・著 『人生論ノート』
三木清曰く、”幸福は人格である。”
幸福という人格を自分の中に作ってみたいと思っています。
心が声高らかに歌う、美しい数秘術2の日でありますように。
Kiki
先日買ったリリーカラーは夏の花。
重陽の節句と知らずに買った菊。
菊は秋。
我が家はまだまだ夏と秋が混在中。
秋は音楽を聴いたり本を読んだりぼーっと妄想に励むのにぴったり。
以前聞いていた音楽たちがなぜかこの数日急に上がってきました。
懐かしくて新鮮だったので、もしよろしければ。
なんとなーく秋の夜長に。
かしこまったクラシックは気合がいるけど、2CELLOSなら楽しく聞けます。
彼らのほかの動画も楽しいです。
一か月ほど旅に出ている友人が旅先からポツポツと写真を送ってくれます。
見渡す限り人間は僕しかいないところで絵を描いている、と書いてありました。
こんな風景なら描きたくなるだろう。
なぜ芸術の秋というのだろう。




